歎異抄を読む |
今月号(2010年11月)から、世界中の言語に翻訳され、世界中の人々に深い宗教的感銘を与え続けている歎異抄を、来恩寺有縁の皆さんと共に味わっていこうと思います。 歎異抄は、来恩寺の「聖典に学ぶ会」でもたびたび取り上げ、皆さんと一緒に学んでまいりました。個人的な感想ですが、歎異抄は読むたび、学ぶたびにその味わいに微妙な変化があり、そして新たな発見があります。 それは、その時々の私の感性に違いがあることと、歎異抄が、いつの時代の、どこの国の人にも共通する、人間の究極的な問題を取り上げているからだと思います。 今回の歎異抄は、2002年12月に本願寺出版社から発行された、現代語訳付き、梯實圓先生解説の歎異抄を使用させていただき、原文と現代語訳、そして自分なりの味わいなどの順で読み進めたいと思います。 |
歎異抄「序」 |
《原文》 |
歎異抄の著者には諸説ありましたが、今日では親鸞聖人の直弟、河和田(茨城県水戸市)の唯円坊という説が最も有力です。また、歎異抄の原本は伝わっておらず、現存する最古の歎異抄は西本願寺に所蔵されている蓮如上人の書写本です。 その書写本の最後には、蓮如上人晩年の筆跡で「右この聖教は、当流大事の聖教となすなり。無宿善の機においては、左右なく、これを許すべからざるものなり。(この「歎異抄」は、わが浄土真宗にとって大切な聖教である。仏の教えを聞く機縁が熟していないものには、安易にこの書を見せてはならない。)釋蓮如」という奥書が記されております。 歎異抄は、「絶対他力」という、人智や人間の価値観をはるかに超えた「本願力」の真髄が明らかにされているため、蓮如上人は「無宿善の機(真宗に縁のない者・信心のない者)」に見せると、著者の唯円坊が歎いた「異な(り)」を再生産する恐れがあると危惧されたのでした。 皆さんも歎異抄を読むときは、世間一般的な常識や仏教観を捨てた方がよく理解できると思います。 |
「序」(その2) |
歎異抄の構成 歎異抄の構成は、まずこの書を書く動機を記した「序(前序)」と、親鸞聖人の言葉を集めた「第1条〜第10条」の師訓編、当時の異義を集めた「第11条〜第18条」の異義編、そして「後序」、「流罪記録」、「蓮如上人奥書」となっております。 第10条の後半部分は第11条から第18条の序文のようになっておりますので、「中序」とか「別序」とも呼ばれておりますが、「歎異抄」というこの書のタイトルは「後序」の最後、つまり著者がこの書を書き終えた後に名付けております。次の通りです。 「かなしきかなや、さいはひに念仏しながら、直に報土に生れずして、辺地に宿をとらんこと。一室の行者のなかに、信心異なることなからんために、なくなく筆を染めてこれをしるす。なづけて『歎異抄』といふべし。外見あるべからず。(幸いにも念仏する身となりながら、ただちに真実の浄土へ往生しないで、方便の浄土にとどまるのは、なんと悲しいことでしょう。同じ念仏の行者の中で、信心の異なることがないように、涙にくれながら筆をとり、これを書いたのです。『歎異抄』と名づけておきます。同じ教えを受けた人以外には見せないでください。)」 「序」と、この「後序」の一部から、著者の居ても立ってもおられない心情を汲み取ることができます。 生まれ難き人間として生まれ、遇い難き念仏の救いに遇いながら、真実の信心をいただかずに、自分勝手な考えにとらわれて、本願他力の教えのかなめを思い誤ること、まことに残念なことであり、あってはならないことです…と。 そしてその思いは行動となりますが、その行動は誰かを責めたりする行動ではなく「なくなく筆を染めてこれをしるす」という、まさに『歎異抄』のタイトル通り「異なりを歎き」「人々の疑問を取り除きたい」という行動です。 真の教えを一人でも多くの人に伝えたいという思いは、阿弥陀仏のご信心をいただいた者に必ず備わる行動です。親鸞聖人も唯円坊も蓮如上人もそうです。そして私たちも。 |