浄土真宗のツボ

 指圧や笑いにツボがあるように、浄土真宗の教えにも外してはならないツボがあるように思います。
 そんな浄土真宗のツボを紹介いたします。
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「浄土真宗には祈りがないというツボ」
「阿弥陀仏の救いには条件がないというツボ」
「阿弥陀仏の救いには条件がないというツボ(2)」
「浄土真宗の信心は『する』ではなく『いただく』信心」
「浄土真宗の信心は『する』ではなく『いただく』信心」(2)
「現世祈祷・まじない・占いなどがないというツボ」
「教えを聞く」ことは、本当の自分を知るということ
「仏法を聞く」ということ
「念仏は他力の念仏}というツボ
「浄土真宗のお盆」のツボ
「お経は依りどころ」というツボ
「仏として還る」というツボ
報恩講とは
「悪人正機」というツボ
「お念仏は亡くなった者のためではない」というツボ
「真の師弟関係」というツボ















「浄土真宗には祈りがないというツボ」

 浄土真宗には祈りがありません。

 お仏壇に手を合せ、南無阿弥陀仏とお念仏を称えるのも何かを祈ったり、お願い事をしているのではありません。

 他宗派ではご先祖や亡くなった方の冥福を祈ったり成仏を願ったりしているようですが、浄土真宗はご先祖や故人は、私を導いてくれる仏さまとなられたと受け止めますので、そのような人たちに、生きている私たちが何かをしてあげるといった思い上がりの気持ちは大変失礼なことです。

 また、霊を鎮めるという意味でお参りをしていたとすると、ご先祖などは、祟りを引き起こす悪霊のような存在になってしまいます。

 親鸞聖人は歎異抄で「親鸞は父母の孝養(追善供養)のためとて、一返にても念仏申したること、いまだ候はず」と言い切られておりますように、ご先祖や故人の供養のためのお参りは浄土真宗にはありません。

 また、自分の希望や願いを叶えるために行うものでもありません。「病気が治りますように」とか、「受験に合格しますように」といった、自分の都合に合わせたお参りも浄土真宗にはないのです。

 私たちのお参りは、祈りではなく、見返りを求めない感謝の行動なのです。祈りには見返りを求める気持ちが存在します。「これだけお参りしているのだから、きっと良いことが起こるだろう」といったように…。

 私たち浄土真宗には見返りを求める祈りはありません。阿弥陀さまは、私たちが祈ったから動くような仏さまではないのです。

むしろ「祈り」に込められた我執・煩悩に気付かせてくれるのが阿弥陀如来さまなのです。


「阿弥陀仏の救いには条件がないというツボ」

 阿弥陀さまの救いには我々に対する条件がありません。つまり、「善人になりなさい、そうすれば救ってあげましょう」とか、「神の命令に従う者を救います」というように「何々する者を…」のように「何々する」といった条件を付けずに、まったくの無条件で我々を救うのです。なぜなら、条件を付けられますと救いから漏れる私がいるからです。

 でも、ここらあたりをよく勘違いする人がおります。「いや、お念仏を称えた者だけが…」とか、「信じる者だけが…」というふうにです。

 お念仏を称えることや信じることは大事ですが、浄土真宗は自力無功(無効ではない)の教えですので、自分の手柄で救いが成立するのではありません。

 お念仏申すことも、阿弥陀仏を信じる心を恵まれたことも、すべて他力(阿弥陀仏の力)によって為されるのです。

 「だから自力を捨て去ることが大事」と、今度は自力を捨てることを条件にしてしまう人がおりますがそれも間違いです。

 自力を捨て去ることが条件ではありません(捨て去ることは不可能です)。自力を捨て去ることはできませんが、自分の称える念仏が救いの条件とはならないと、自力無功を知らされ、その上で申す念仏が他力の念仏なのです。

 お母さんは自分の名前を呼んでくれたから赤ちゃんにお乳をあげるではありません。自分の名前を呼べないうちから赤ちゃんが泣けば「お母さんがいるよ。泣かなくていいのよ」とお乳をあげ、オムツを替えるのです。

 その「お母さんがいるよ、大丈夫よ、お母さんがいるよ」の声を聞き続けた赤ちゃんが、いつの間にか、ある日突然、「おかあさん」と母の名を呼ぶのです。そしてこの「おかあさん」という言葉は赤ちゃんの大いなる安心の言葉であり、お母さんに全幅の信頼を置く言葉なのです。

 他力の念仏であります。


「阿弥陀仏の救いには条件がないというツボ(2)」

 前回も述べたように阿弥陀如来の救いには、我々に対する条件が付けられておりません。条件が付けられていないということは、私が私のまま救われていくことで、昔から「そのままのお救い」と多くのお同行が慶んでまいりました。

 今回は、なぜ「そのままのお救い」が慶びとなるのかをお話ししたいと思います。

 ハワイで開教使をしていた頃、ある先輩開教使から聞いた話です。ある日、その先輩開教使のお寺に一人の白人男性が訪ねてきました。話を聞くとカトリックの信者とのことでしたが、「自分はどうしても神の期待するような善人にはなれない」という悩みを持っていたそうです。その男性はとても真面目な方で、毎週の礼拝や教会の活動には進んで参加していましたが、神の期待する善人になろうと努力すればするほど、外面は善人を装ってはいるが内面のドロドロとした悪魔のような自分の心に気付くのだそうです。

 周りの信者の人たちにそのことを言えば軽蔑され、なじられるに違いないと思い、また実際、周りの人たちはみんな善人で、自分もそのような善人になりたいと思うのだが、善人とはほど遠い自分の心の真実の姿に悩んでいるというのでした。

 先輩開教使は静かに阿弥陀如来の救いを話したそうです。

 阿弥陀如来の救いは無条件であること、そして、そのような善人になれない悪人こそを救いたいと願われたのが阿弥陀如来であることを…。

 その白人男性は涙を流して慶ばれたそうです。そして何度も「こんな自分でも救われるのか」と先輩開教使に問い続けたそうです。

 阿弥陀如来の無条件の救いは究極の救いです。そしてその救いに気づくのは自分の心の悪を自覚した人なのです。

 「自分」に悩んでいる皆さん、そのままでいいのです。弱さや醜さをそのまま引き受けてくれるのが如来さまです。


「浄土真宗の信心は『する』ではなく『いただく』信心」というツボ


 通常、一般宗教で言う信心は、「信心する」というように自分の行為として考えておりますが、浄土真宗の信心は、阿弥陀如来から「いただく(賜わる)」信心です。

 「する」と「いただく」は、まったく正反対の言葉で、「信心する」の場合、信心の製作者(物でないのでちょっとおかしな表現ですが…)は自分であり、「いただく信心」の場合は、その信心の製作者は自分以外の者をさします。

 不確かな自分の力や心(自力・自力心)を認めない私たち浄土真宗では、信心という心のハタラキ(おまかせの心)も如来さまの側で作られ、私たちに回向(えこう・ふりむけること)してくださっていると考えます。

 小さな子どもは親(特に母親ですが…)に全幅の信頼を置いております。親から「私を信じなさい」と言われたこともないでしょうし、「親を信じなければ…」と考えたこともないでしょう。それでも子どもは親を頼りにし、親と一緒なら、たとえそこが地獄でも行動を共にすることでしょう。そこには打算とか疑い・賭け引きといった、大人の世界とは無縁の純心という心があるのです。

 浄土真宗で「信心する」と言わないのは、「信心する」ことによって何かを期待する、そんな賭け引きや契約の心を否定するからです。

 大人の私たちには非常に難しいことでありますが、阿弥陀如来の大慈悲心をお聞かせいただき、学んでいくところに恵まれる大いなる安心の世界が「いただく信心」の世界です。

 そんな世界では、もはや信心という言葉も必要ではありません。ただほれぼれと阿弥陀如来の救いを慶ぶばかりです。たまに現実世界での自分を顧みて「お恥ずかしい」「もったいない」と思わせていただきますが、そんな思いも阿弥陀如来からいただく心なのです。阿弥陀さまと賭け引きするのは止めましょう。


「浄土真宗の信心は『する』ではなく『いただく』信心」(2)


 親鸞聖人が法然聖人の弟子となり、数年経った頃の出来事です。聖人が聖信房をはじめとする多くのお弟子達と仏法修行に関して話し合っていました。

 念佛房が「同じ浄土を願い極楽往生を遂げたいと思うものの、凡夫の信心は嘘や疑いが混じっていて、いつになったら師の法然聖人の様な信心を得て何の不安もない往生をとげられる事であろうか」と言われたところ、聖信房も勢観房も他のお弟子も、皆これに同意しました。

 しかし親鸞聖人は、「いや、私はそうは思わぬ、信心においては師の法然聖人の御信心も私の信心も変わるところはないと存じます」と言われて一人、この説に賛成されませんでした。

 これを聞いた聖信房以下のお弟子達は「貴房の信心がいか程堅固であるかは存ぜぬが、師の御信心に及ぶことはあるまい」と反発しました。

 そこで親鸞聖人は「もしも師の智恵や学問に私が等しいと申せば恐れ多い事ではありますが、他力の信心においては師の信心も如来よりたまわられた御信心であり、私も同じく如来回向の信心ですから何も変わる事はありません」と信念を主張されました。

 そこへ法然聖人が来られ、双方の意見をお聞きになり次のように仰せになりました。「およそ信心において違いありというのは自力の信心に関してのことである。即ち、智恵に違いがあるから、信心もまた違うのである。しかし、他力の信心は善悪、いずれの凡夫にも同様に仏の方よりたまわる信心であるから、私の信心も善信房(親鸞聖人)の信心も異なるところはなく、ただ一つである。ことに私が賢くて特別の信心があるのではない。もし、私と異なった信心を持っている人は、私が参るであろう浄土へは来る事ができないであろう」と御裁断されました。


「現世祈祷・まじない・占いなどがないというツボ」

 浄土真宗には祈祷(病気治しなどのお祈り)や、まじない(神仏や霊力をもつものに祈って、災いを逃れようとしたり、また他人に災いを及ぼすようにしたりすること)、占い(手相家相・墓相・星座・血液・方角などによって吉凶を予言すること)がありません。

 本来、お釈迦さまの説かれた仏教の中に、祈祷や、まじない・占いなどがあってはならないのですが、いつごろからか、多分、お釈迦さまの入滅直後からだと思うのですが、仏教を曲解(知っていて利用すること)する輩が現れたのだと思います。

 特に人々の恐怖心を利用しての祈祷やまじない・占いなど、あるいは自分を信じさせようとする行為は、卑劣で卑怯きわまりない犯罪のような行為だと思います。

 「このままだと死んでしまう」とか「不幸になる」「霊の祟り」などの言葉を連発する占い師や霊能者には十分気をつけましょう。

 仏教は因果の道理を説く宗教ですので、病気になったり事故に会うのも、それだけの原因・理由があるのです。そんな原因・理由を霊や方角、あるいは家相・墓相のせいにするのはやめておきましょう。

 それから、厄除けや開運招福などと称して、お札やお守り等を売りつける宗教も沢山ありますが、そんなものも気にする必要はありません。

 仏教各宗派の本山と称される場所で、お札やお守りを販売しているところがありましたら注意しましょう。仏教以外の教えが混入してしまっている可能性があります。

 親鸞聖人の和讃に

  かなしきかなや道俗の
  良時吉日えらばしめ
  天神地祇をあがめつつ
  卜占祭祀つとめとす

 というものがあります。

 今も昔も、僧侶も俗人も、祈祷・まじない・占いに迷っていたようです。ご注意を。


「教えを聞く」ことは、本当の自分を知るということ

 「私は長年仏法を聞いたおかげで腹をたてなくなりました」と言われる方がありますが、はたしてそうでしょうか、仏法を聞いたからといって腹がたたなくなるのではありません。もって生まれた根性は、そう簡単に変わるものではありません。

 仏法を聞いて腹がたたなくなるのではなく、いつも自分勝手に腹をたてている自分の姿が、はっきりと知らされてくるのです。腹をたてまいと思っていても、縁によってまた腹をたてている私です。お恥ずかしいと頭が下がる人が仏法の聞こえた人です。

 以前あるお婆ちゃんが、今日はとても良い話を聞いたから、今日一日は腹をたてまいと心に誓って帰宅しました。帰ると息子が家の建て替えの話をしていたので聞いてみると、お婆ちゃんの存在を全く無視した話だったので、少し口出しをすると、息子は「この話は婆ちゃんには関係ないんだ。婆ちゃんは黙っとけ」と、全く無視されたそうです。お婆ちゃんは腹がたって腹がたって、風呂場へ行き、水道の蛇口を思いきりひねってワンワンと泣いていたそうです。

 仏法を聞いて、良い人間、立派な人間になろうとするのではありません。煩悩具足の凡夫である私の姿が明らかになるだけです。私の姿が見えてくると、もう阿弥陀さまにまかすしか仕様のない私が知らされるのです。

 ある奥さんは、「仏法を聞いていいものになろうと20年頑張ってきましたが、やっとダメなもんやということがわかりました。ダメなもんやということがわかってはじめて聞法が地についてきました」と話されていました。

 不死川 浄 師    大阪教区『聞法』より

「仏法を聞く」ということ

 仏法を聞くとは、経文を覚え、偉い先生の話を覚えることではありません。経文のお言葉が、今、ここにいる私に何を教え説いてくださっているのか、偉い先生のお話は、私に何を問いかけてくださっているのかと、経文の一言一言を、先生のお話の一つ一つを、自らの身にあてて味わうのが仏法聴聞なのです。

 お経にこう書いてあるから、こう聞いておけば間違いない、先生がこう言われたのだから、こう思っておけば間違いないという聞き方は、仏法を聞いたのではなく、ただ覚えただけです。

 ですから、仏法を聞いているといいながら、「人間はみな悪人である」と覚え、「その悪人をすくってくださる如来さま」と、覚えただけの人が案外多いのです。仏法を覚え知っているだけでは、仏法は全く生きる力になりません。

 身にかけて問い、身にかけて聞くとき、仏法は何よりも強い力となって、わが「いのち」をささえてくださいます。蓮如上人は「かむとはしるとも、呑とはしらすなといふことがあるぞ」と教えてくださいました。

 すなわち、「食物でも、しっかり噛んでその味を十分に味わうことが大切であるということを教え、鵜呑みせよと教えてはならない」と教えてくださったのです。

 そして、続いて、「妻子を帯し、魚鳥を服し、罪障の身なりといひて、さのみ思のままにあるまじき」といわれました。

 仏法をしっかり噛みしめて味わえば、「罪の深い人間だから、悪人だからといって、勝手気ままな放逸無慚の生活などできるはずがない」といわれたのです。

 藤田 徹文 師    大阪教区『聞法』より

「念仏は他力の念仏}というツボ

 2008年5月の来恩寺団体参拝旅行で島根県石見地方へまいりましたが「妙好人浅原才市さん」ゆかりの寺院に参拝し、才市さんのエピソードなどを聞かせていただきました。

 「才市さんはいつも高座の真ん前、ここに座っておられました」とか、「毎日お寺に来ては、御本尊さま、親鸞さま、蓮如さま、聖徳太子さま、七高僧さまの順にお礼をしておりましたが、七高僧さま方には、丁寧に一人ひとりのお名前をお呼びしながら『ありがとうございます』とお礼しておりました」などとお聞きし、今にも才市さんのお念仏の声が聞こえそうなぐらい、同じ空間を共有していることに感動しました。

 西楽寺さんでの「当たった、当たった」のエピソードも感動しましたが、安楽寺さんの境内にあった碑文にも感動しました。

「かぜをひけばせきがでる
 さいちがごほうぎ(法義)のかぜをひいた
 ねんぶつのせきがでるでる」
という碑文です。

 風邪をひけば咳が出ます。出さないようにと思っても咳は私の意思に関係なく止まりません。

 才市さんがご法義という仏法(信心)の風邪をひきました。出さないようにと思ってもお念仏が次から次へと口をついて飛び出してくるのでした。

 「念仏自然」とでも言うのでしょうか、信心には必ず念仏が伴うことを、そして「でるでる」という表現に、その念仏が他力念仏であることを見事に表現しております。

 私が称えようとするお念仏は私の意志で称えないでおくことも可能ですが、阿弥陀仏の働きに催されたお念仏は、風邪をひいたときの咳のように、こらえ切れずに飛び出してくるのでした。

 「念仏は他力の念仏というツボ」です。

「浄土真宗のお盆}のツボ

 仏教本来のお盆の行事・期間とは、尊い仏さまとなられた亡き人を偲ぶとともに、故人に導かれて我々の日常の生き方を省み、命の尊さや、欲を離れた施しの大切さを考える期間です。

 本当は毎日そのような命や施しの大切さを考えるべきなのでしょうが、日常生活に追われた私たちにはほとんど不可能です。ですから「せめてお盆の間ぐらいは考えましょう」と設けられたのがお盆の行事なのです。

 昔から「せめてお盆の間ぐらいは殺生するな」と言われてきたのもそのような意味からです。

 ですから私たち浄土真宗では、お盆だからといって特別なことはいたしません。お仏壇や家の中にも特別な飾りは必要ありません。一般の法要と同じように菓子や果物といった供物をお仏壇にお供えし、お花やローソクを用意すれば立派なお飾りなのです。

 他宗派では亡くなられた方全員を餓鬼道(迷い・飢えの世界)に落ちていると考え、お盆の4日間(7月、もしくは8月の13日〜16日)だけ家に帰ってくる(帰ってくるのを許す)と考えるため、迎え火(家を間違えないようにという意味)や送り火(さあもう餓鬼道に帰りなさいという合図)を焚いたり、お仏壇以外にお盆だけ特別にお位牌を安置する精霊棚を作り、食べ物や野菜を供えたり(家に帰ってきても良いが、家の中をウロウロするなという意味)、キュウリやナスに足を付けてみたり(昔の乗り物。キュウリは馬・ナスは牛。最近はチョロQが主流)と、特別なことをしておりますが、浄土真宗は故人をそんな迷いの存在とは考えませんので、一切必要のないことです。

 親類等からいただいた灯篭などはお飾りしても問題ありません。

 その他、分からないことは僧侶に聞いて下さい。

「お経は拠りどころ}というツボ

 仏教はお釈迦さまによって説かれた経典がよりどころであります。

 正しい教えには必らず「依りどころとなる経典」があるのです。人は生まれながらの生活をしていると、野育ちと同じことで貪りと怒り腹立ちと愚痴の生き方しかできないのです。

 その野育ちのいのちを、仏さまの教えによって耕やされて本物にめざめるはたらきを文化と呼び、その依りどころを経典によることによって仏教文化と呼ぶのです。

 一般にお経はお釈迦さまが三十五才でお悟りを開かれて以来、各地で説法されたものを、お釈迦さまがご入滅後まとめられたものがお経で約七千八百巻と言われています。

 お経はいつの時代にも変わらない真実の理を説いたもので、お経の語は織物のタテ糸とか、線、物ごとのすじ道を表わしたものとされています。

 仏教には経典、キリスト教には聖書、イスラム教にはコーランがありまして、いつの時代にも人間の環境の変化にかわることのない道すじを説かれたもので、織物のタテ糸にたとえられたこともうなずけます。

 織物で「タテ糸」がしっかりしていないとヨコ糸が織れないのですから、特にタテ糸は欠かすことのできない大切な糸であります。

 ちょうどそれは真実の世界から迷いの世界に届けられた真実の「タテ糸」です。お経は真実の世界からの真実の言葉です。迷いを転じて悟りを開く智慧の教えを説かれたものがお経です。

 世間でどれほど仏説のように、仏法のもの知りのように人に話す人があっても、お経に説かれていないことを説き伝えることは仏教ではありません。よりどころのないものは俗信であって仏教ではないのです。

  武田 智徳師 大阪教区『聞法』より


「仏として還る}というツボ

 仏教とは「仏(お釈迦さま)の教え」であり、私が「仏に成る教え」とよく言われます。

 仏教がキリスト教やイスラム教と違うところは、私たち人間が「仏に成る」ところだと思います。キリスト教やイスラム教では、人間は神の下僕(しもべ)となれても、神に成ることはありません。

 その人間が仏に成る仏教の中でも、浄土真宗の説く仏は「真実へ導く・真実を気付かせる」という「ハタラキ」を持つ存在です。

 私たちが仏教という教えを聞く目的はもちろん仏に成るためですが、浄土真宗では、煩悩だらけの私がこの世で覚りを開いて仏に成ることは不可能ですので、お浄土において仏と成るのですが、お浄土にじっとしているような仏では浄土真宗で説く仏とは違います。

 お浄土からこの世に還り来て、あらゆる者たちを、特にご縁のあった者たちをまず救い取る・導いて行くのが浄土真宗の仏なのです。

 このあたりを多くの方が勘違いしております。私が仏に成ることで救いが完結すると思い込んでいる人がたくさんおられますが、仏に成るとは同時に多くの者を救い取り導くことなのです。

 私はご法事の際によく「皆さんが今日ここに来られたのは、皆さんの考えで集まったのではなく、仏さまと成られた故人によって集められたのですよ」とお話しいたします。

 つまり、仏さまと成られた故人のハタラキに導かれて、今この私が阿弥陀さまの救いを聞かせていただく、そして阿弥陀さまの救いを聞くことによってこの私も命終わったとき仏さまと成らせていただき、縁ある者たちを救って行く、そんな連続して休みのない活動の場がご法事の場なのです。

 私を導いてくださっている、仏さまと成られた故人のハタラキを大切にしましょう。


報恩講とは

 毎年お勤まりになります「報恩講」とはまさに、日常において私たちが忘れそうになっています「恩」について味わっていく機会であります。

 「報恩」という言葉はインドの古語では「クリタムジュニャー」といい、その意味は「為されたことを知る」というのが元々の意味であります。私たちが生きていく上で、自分以外のすべてのものによって、いろいろと恵みを受けている事実に心から感謝の気持ちをささげるという意味でありましょう。

 恩を売る。恩を着せるというような使い方は自分がしてやったというのが全面に強く出ているものです。そうでなくて、「〜させていただく」という気持ちが報恩でありましょう。

 恩とは、自らの心のうえに因を置くと字に示されています。すなわち、私の心をよくたずねていくことにより、私というものが存在するのは、誰々の因と縁とによって成り立っているという存在の真実の姿そのものが、知らされるということであります。

 言い換えますとああしてもらったからこうしなければならないとか、こうしてもらったからああしなければならないとかいう義務や強制的なものではなく、私が自分の力だけでは成り立っていないことに気が付くことが、恩を知るということであり、報恩、すなわち恩に報いる生き方に繋がっていくことです。

 このように私の心が転ぜられていきますのは、ひとえに南無阿弥陀仏のおはたらきによるものであります。ですから、恩といっても仏さまのご恩(仏恩)を言うのであり、仏恩を報ずる、仏恩に報いる人生を送らずにはおられない心となるのでしょう。

 これを浄土和讃には、

   弥陀の名号となえつつ
   信心まことにうるひとは
   憶念の心つねにして
   仏恩報ずるおもいあり

と示されます。

 東京教区中組法重寺住職 南條了元師
 ポストエイオス研究会 HPより

悪人正機というツボ

 今回は「悪人正機(阿弥陀仏の救いは悪人を目当てとする)」というツボです。

 歎異抄第三条の御文(意訳)です。
 「善人でさえ浄土に往生することができるのです。まして悪人はいうまでもありません。ところが世間の人は普通『悪人でさえ往生するのだから、まして善人はいうまでもない』といいます。これは一応もっともなようですが、本願他力の救いのおこころに反しています。なぜなら、自力で修めた善によって往生しようとする人は、ひとすじに本願のはたらきを信じる心が欠けているから、阿弥陀仏の本願にかなっていないのです。しかしそのような人でも、自力にとらわれた心をあらためて、本願のはたらきにおまかせするなら、真実の浄土に往生することができるのです。
 あらゆる煩悩を身にそなえている私どもは、どのような修行によっても迷いの世界をのがれることはできません。阿弥陀仏は、それをあわれに思われて本願をおこされたのであり、そのおこころは私どものような悪人を救いとって仏にするためなのです。ですから、この本願のはたらきにおまかせする悪人こそ、まさに浄土に往生させていただく因を持つものなのです。
 それで、『善人でさえも往生するのだから、まして悪人はいうまでもない』と、聖人は仰せになりました。」

 この歎異抄第三条で親鸞聖人は、宗教的な善悪は世間の善悪の判断とは違い、阿弥陀仏の救いを信ぜずに自分の力で悟りを開こうとする人を善人、反対に、自分の力では到底悟りを開くことは困難と自覚し、阿弥陀仏の救いを信じる人を悪人と定義されておられます。

 そして、善人の持つ慢心(自己を誇る心)は、信心(おまかせする心)とは真逆であることを明らかにし、自力を捨てたところに広がる、大いなる慶びの世界に気づいてほしいと願われているのです。


「お念仏は亡くなった者のためではない」というツボ

 今回は「お念仏は亡くなった者のために称えるのではない」というツボです。

 前回と同じく、親鸞聖人の言葉を集めた歎異抄を見てみますと、第五条(意訳)に、

 「わたし親鸞は、亡き父母の供養のためと思って念仏したことは、かつて一度もありません。

 なぜなら、命のあるものはすべてみな、これまで何度となく生れ変り死に変りしてきた中での、父母であり兄弟姉妹なのです。

 ですから、私がこの世の命を終え、浄土に往生して仏となれば、そのようなすべての人を救わなければならないのです。

 念仏が自分の力で努める善であるなら、その功徳によって亡き父母を救いもできましょうが、念仏はそのようなものではないのです。

 今はただ、自力にとらわれた心を捨てて、速やかに浄土に往生してさとりを開いたならば、迷いの世界にさまざまな生を受け、どのような苦しみの中にあろうとも、仏としての自由自在で不可思議なハタラキにより、何よりもまず縁のある人々を救うことができるのです。

 このように聖人は仰せになりました。」と、あります。

 これはものすごい言葉です。親鸞聖人はすべての命を私と関わりのある命と受け止めておられるのです。

 ですから、「なぜこの世で縁のあった父や母のためだけお念仏するのか」と、人間の持つ自己中心性・差別心をまず問題とし、次に、迷いの存在であり続ける自分が、亡くなった者を救おうとするその欺まん性に気づくこと、言い換えれば、亡くなった者を「かわいそう」とか「何とかしてあげたい」と思う心に潜む、生と死に対する優劣的価値観が問題であり、死者に対しては、私が仏と成ることによってでしか解決できないのだということを明らかにされました。

 つまり、お念仏は死者に対してではなく、私の「成仏」という上で語るべきものと示されたのです。

 詳しくは法話会で聴聞を。


「真の師弟関係」というツボ

 親鸞聖人ご在世の頃、阿弥陀仏の救いを聞く人々のあいだで「自分の弟子だ」「人の弟子だ」といった争いがあったようです。

 そんな人々に対して聖人は「親鸞は弟子一人ももたず候ふ」と宣言され、その理由は「私の力で人に念仏を申させているのであれば、その人は自分の弟子ともいえましょうが、阿弥陀仏のお導きによってお念仏を申しておられる人を、私の弟子であると言うことは、とんでもないことなのです」と述べておられます。

 そして「人は、つくべき縁があれば一緒になり、離れるべき縁があれば離れてしまうものなのです。もし、今まで一緒にいた人と離れてしまうことがあって、その人が違う人と一緒にお念仏を申していたとしても、それはそれで仕方のないことなのです」

 「ですから、私から離れて、他の人と一緒に念仏している人を批難したりすることは、阿弥陀仏からいただいた信心を、私が与えたものと考え、取り返そうとするようなもので、あってはならないことです。お念仏を心から慶ぶ人は、こちらが何も言わなくても、阿弥陀仏のご恩を知り、師のご恩も分かるものなのです」とおっしゃいました。

 親鸞聖人の「弟子一人ももたず」と言う言葉を受けて「真宗に師弟関係はない」と言う人がおられますが、それは間違いです。「私はあの人の師だ」「あの者は私の弟子だ」と言う人は確かにいないと思いますが、「私の師はあの人です」「私はあの人の弟子です」と言う方はたくさんおられます。私にお念仏のみ教えを伝えてくれた人を私たちは師と思い、胸を張って「私はあの人の弟子です」と宣言するのです。

 浄土真宗の真の師弟関係は、「人」ではなく「阿弥陀仏」を中心にして成立するのです。