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仏事の迷信Q&A

1

Q 死んだ者もいないのに仏壇を買ったりすると、新しく死者が出ると聞きましたが本当でしょうか。
2 Q 親類で仏事に詳しい者から「四十九日が三月にわたるといけない」と言われました。本当でしょうか。
3 Q 弔辞や弔電の言葉で浄土真宗になじまない言葉があると聞きましたが、どんな言葉でしょうか。
4 Q ある人から「結婚できないのは墓相が悪いからだ」と言われました。そんな事ってあるのでしょうか。
5 Q 浄土真宗はお位牌を使わず、過去帳を用いると聞きましたがどうしてでしょうか。
6 Q 通夜や葬儀の時はお仏壇の扉を閉じなければならないと聞きましたが本当でしょうか。
7 Q 戒名や法名は長い方が良く、短いと亡くなった者が成仏しないと聞きましたが本当でしょうか。
8 Q 浄土真宗ではお仏壇にお茶やお水をお供えしないと聞きましたがどうしてですか。
9 Q お祖母ちゃんは、お仏壇とお墓のどちらにいるの?
10 Q 亡くなった家族の霊のようなものを見たのですが、成仏していないのでしょうか。
11 Q 葬儀ノ後ニ「精進オトシ」ヲシナイトダメダト言ワレマシタ。「精進オトシ」ッテ何デスカ
12 Q 葬儀や法事の際の御布施の額はどれ位が適当でしょうか。平均があれば教えて下さい。
13 Q亡くなった者には旅支度をさせて送らなければ迷うと聞きましたが本当でしょうか。
14 Q御香典は四十九日までが御霊前で、四十九日が過ぎると御仏前と表書きすると聞きましたが…。
15 Q身内の死や事故・病気などの不幸が続いた時、友人から「宗派を変えなさい」と言われましたが…。
16 Q.結婚式をどこで挙げればいいか悩んでいます。やっぱり神社か教会でしょうか
17 Q.浄土真宗では般若心経を読まないと聞きましたがどうしてでしょうか。
18 Q 自殺して亡くなった者は成仏しないと聞きましたが本当でしょうか。
19 Q.お仏壇を買ったら御本尊がサービスでついてきました。そんな市販の御本尊でも良いのでしょうか。
20 Q.宗教の目指すところはみんな同じだと言う人がおりますが・・。
21 Q.お仏壇やお位牌を買ったらお坊さんに魂を入れてもらいなさいと言われましたが…。
22 Q.お仏壇の前にあるリンはどのようなときに打つのでしょうか。
23 Q.浄土真宗の人を門徒と呼びますが、檀家とどう違うのでしょうか。
24 Q.仏教には大乗仏教と小乗仏教がありますが、どう違うのでしょうか。
25 Q.お経は亡くなった人のために読むものではないと聞いたのですが…。
26 Q.友引の日に葬儀を出してはいけないと聞いたのですが…。
27 Q.「門徒物忌み知らず」とは、どういう意味でしょうか。
28 Q.お墓やお仏壇には向きとか安置場所があると聞いたのですが…。
29 Q.お浄土や地獄・極楽などは本当にあるのでしょうか。
30 Q.浄土真宗ではなぜ塔婆を用いないのですか?
31 Q.遺骨を分骨すると故人が迷うと言われましたが…。
32 Q.遺骨は49日に納骨しなさいと言われましたが…。
33 Q.宗派によってお焼香やお線香の作法が違うと聞きましたが…。
34 Q.浄土真宗のお墓の石碑正面は何と刻めばよいのでしょうか
35 Q.「お彼岸」とはどういう行事なのですか。
36 Q.「永代経」とはどういうお経なのですか。
37 Q.「喪中」とは何のことでしょうか。
38 Q.他の骨より「のど仏」を大事にしなさいと言われました。「のど仏」って何ですか?
39 Q.浄土真宗に「死」は無いと聞きましたが本当でしょうか。
40 Q.今は忙しくてお寺へ行く時間がありません。退職して暇が出来たらお寺へ行こうと思います。
41 Q.他力本願の本来の意味を教えてください。
42 Q.二人の法事を一度で済ましたいのですが…。
43 Q.同じ人の法事を二回勤めてはいけないのですか。
44 Q.どの宗教でも信心を言いますが信心はみな同じなのでしょうか。
45 Q.どうして本願寺が西本願寺と東本願寺に分かれたのでしょうか。
46 Q.よく「前世の業」によって現在の境遇が決まったと聞きますが本当でしょうか。
47 Q.他力本願って何ですか?リーフレットから
48 Q.家に二つのお仏壇があると良くないことが起こるといわれましたが…。

仏事の迷信Q&A (No.1)

 死んだ者もいないのに仏壇を買ったりすると、新しく死者が出ると聞きましたが本当でしょうか。

 仏事の迷信Q&A、第1回目のQ(質問)はお仏壇に関する質問です。質問者は那覇市にお住まいの具志堅用子(仮名)さんです。
 お答えします。お仏壇を買うと死者が出ます。しかし買わなくても出ます。何故なら私の知り合いのAさんはお仏壇を持たないキリスト教徒でしたが二年前の冬に突然心不全で亡くなってしまったからです。

 Aさんは私に、死はお仏壇を買う買わないに関わらず、生まれた者全員に必ず訪れるということを教えてくれました。

 このことは幼稚園児でも知っていることなのですが、こんな迷信を言い出した人や気にする人の思いを分析いたしますと、「お仏壇はご先祖や死者を祀る場所」といった勘違いがあるようです。

 だから亡くなった者がいなければお仏壇を家に置く必要はない、そして、死者もいないのにお仏壇を買うと誰かが早く死ぬといった風に、お仏壇を死を引き寄せるブラックホールのように考えてしまっているのです。

 仏教各宗派に共通することですが、お仏壇は御本尊を安置する場所です。浄土真宗であれば阿弥陀如来のはたらきを顕わした御絵像や御木像、あるいは南無阿弥陀仏の御名号を書いた軸を安置する場所がお仏壇なのです。

 死者とお仏壇は一切関係ありません。関係あるとすれば大切な人の死が私にとって阿弥陀如来のはたらきに気づき、阿弥陀如来を人生のより所とさせていただくご縁となって下さったということです。

 亡くなった者の法事も亡くなった者への追善供養のためにあるのでなく、この私が阿弥陀如来のはたらきを聞き、その救いを感謝してゆく場としてあるのです。

 家庭にお仏壇を安置するということはとても大切なことです。自分の勝手な思いと欲だけで行動し、不平不満を口にしながら生きている私たちですが、お仏壇は人間の思考を超えた大いなるはたらきの中で生かされて生きている我が身に気づき、自分自身を省みるご縁となって下さいます。

 小さなお子さんのいる家庭はなおさらです。幼い頃から手を合わして感謝の心を表現できる場所を持つことは、その子に心豊かな人生を約束し、逆境の中でも力強く生きる力を与えてくれることでしょう。 最も尊い感謝の心を育ててくれるのがお仏壇なのです。

 繰り返しますが、お仏壇を買っても買わなくても死者は出ます。お仏壇に頭をぶつけて亡くなった方は別ですが、お仏壇と死は因果関係がありません。むしろ私たちの死に光を与えてくれるのがお仏壇なのです。那覇市にお住まいの具志堅用子さん、安心してお仏壇をお買い求め下さい。

仏事の迷信Q&A (No.2)

Q 親類で仏事に詳しい者から「四十九日が三月にわたるといけない」と言われました。本当でしょうか。

 仏事の迷信Q&A、第2回目の今回は、大阪市にお住まいの安室奈美平(仮名)さんのご質問です。
 この質問は四十九日法要の相談に来られる方からよく受けるご質問です。以前にも「ライオン寺だより」で取り上げたことがありますが、もう一度考えてみましょう。

 奈美平さんの「親類で仏事に詳しい者」とは何者かを考えながらこのご質問にお答えしたいと思います。

 まず想像できますのは、そのご親類は僧侶ではないということです。なぜなら、僧侶であれば「親類の僧侶」と表現するはずですし、こんなことは言わないからです。

 次に想像できますのは、そのご親類はご年配の方ではないでしょうか。なぜなら、私は「僧侶でなくて仏事に詳しい若者」に会ったことがないからです。そのような方もいるかも知れませんが、一般的には年配の方のほうが仏事に詳しいようです。

 またそのご親類の方は、他の親類からけっこう頼りにされている方、あるいは頼りにされていると勘違いしている人物ではないでしょうか。なぜなら、尋ねてもいないのにあなたにこのような忠告を与えているからです。

 次にそのご親類の方は、「四十九日が三月にわたるといけない」と言われるようになった理由を知らない人物だと思います。

 理由を知れば、馬鹿バカしいと一笑にふしてそんな迷信を気にすることもなければ、恥ずかしくて人に忠告することもないはずだからです。

 たぶんその方は迷信や俗信の意味を知ろうともせず、ただ「昔から言われていることだから」で終わらせてしまう、知識はあっても智慧を持とうとはしない人と同じタイプの人なのかも知れません。

 「四十九日が三月にわたるといけない」の根拠は単なる語呂合わせ、シャレです。

  「四十九日」を「始終苦日」に、「三月」を「身付き」に置き換えて、「始終苦日が身に付く」から「四十九日が三月にわたってはいけない」と言われるようになったのです。

 そもそも四十九日は、月の中旬から下旬に亡くなりますと必ず三月にわたります。ひと月が30日と考えますと、ひと月と19日で四十九日の法要(正式には満中陰法要と言う)を迎えるのです。つまり、月初めの1日から11日に亡くなりますと四十九日は二ヶ月以内ですが、12日以降に亡くなりますと必ず三ヶ月にまたがるのです。

 現在では中陰のご法要を省略される方も少なくありませんが、本当は二七日、三七日といった七七日までの一週間ごとの中陰の法要は、残された者の仏法聴聞の場として、故人がその死を賭してつくって下さった大切なご縁なのです。そのご縁を単なる語呂合わせの迷信によって削ってしまうことは、亡き人に申し訳なく、悲しいことです。 

 来恩寺にご縁のある皆様は、決して「親類の仏事に詳しい者」にはならないで下さい。  そして仏事で分からないことは、年配で物知りで、まわりから頼られていると自負している人よりも、専門家である僧侶に聞きましょう。

 安室奈美平さん、ご理解いただけましたでしょうか。

仏事の迷信Q&A (No.3)

Q 弔辞や弔電の言葉で浄土真宗になじまない言葉があると聞きましたが、どんな言葉でしょうか。

 那覇市の具志堅用子さん、大阪市の安室奈美平さん(共に仮住所・仮名)のご質問に続き、今月は京都にお住まいの中村玉夫(こちらも仮住所・仮名)さんのご質問です。
 非常に良いご質問で、玉夫さんの問題意識の深さに感銘いたしました。

 お答えいたします。確かに葬儀のおりの弔辞や弔電を聞いていて、アレレ?・ハテナ?、と思う表現によく出会います。慣例句のように用いられている言葉ですが、具体的にどこに問題があるかを考えたいと思います。

 まずもっとも多く使われている言葉が、 「ご冥福をお祈りいたします」という言葉でしょう。

 この言葉のどこに問題があるかと申しますと、まず、冥福という言葉です。仏教語大辞典によりますと、冥とは、「暗黒。くらやみ。無知と同義語。」と出ており、迷いの世界を指すようです。つまり冥福を祈るとは、死後、暗黒の迷いの世界に落ちたあなたですが、その世界での幸せをお祈りいたします。という意味の言葉なのです。

 浄土真宗では、故人は阿弥陀如来の力によって光の国、お浄土で真の悟りを開き、いつも私を導いておられる仏さまとなられたと受け止めておりますので、冥福・冥土という言葉は使いません。

 また、祈るという言葉も、祈る必要のない阿弥陀如来の大いなる救いを慶ばせていただくのが浄土真宗ですので、私たちにはなじみません。

 次は、 「草葉の陰から見守って…」 「天国から見守って…」 という言葉です。  草葉の陰から…とはたぶんお墓のことなのでしょうけれど、何回も申しますが、故人はお浄土に生まれられ、仏さまとなられたのですから、お墓にはおりません。遺骨はお墓に埋葬いたしますが、故人はハタラキの仏さまとしてお墓に縛られることなく、自由に活動されているのです。

 それに草葉の陰にいるのは、この時期ではコオロギか鈴虫、あるいはダンゴ虫です。故人を墓場に追いやり、虫のように扱っている言葉が草葉の陰から…と言う言葉なのです。

 また、「天国から…」という言葉は、キリスト教徒の方が使われる言葉です。仏式の葬儀に出席しているはずなのに、いつの間にかキリスト教のミサに出席しているような気持ちになる言葉です。仏教徒は天国でなく極楽浄土、あるいはお浄土と表現するのが本当です。天国とお浄土は考え方が違うのですから。

 それに故人のハタラキは、「見守る」という消極的なハタラキでなく、私たちの生と死の方向を決定づける「導く」というダイナミックな活動ですので、この言葉も浄土真宗にはなじみません。

 その他、 「安らかにお眠り下さい」 の言葉も同じような意味から私たちにはなじまない言葉です。真宗的に表現しますと、「お浄土より還り来たりて、私どもをお導き下さい」という言葉が適切だと思います。

 このほかにも変な表現がいっぱいありますが、ひとつひとつ点検して意味を知ることも、真宗門徒としての意識が深まるご縁となることでしょう。

 中村玉夫さん、良いご質問をありがとうございました。

仏事の迷信Q&A(No.4)

Q ある人から「結婚できないのは墓相が悪いからだ」と言われました。そんな事ってあるのでしょうか。

 今回のご相談者は結婚問題で悩んでおられる東京都にお住まいの梅宮ソンナさん(仮住所・仮名)からです。

 お答えいたします。ソンナさん、そんな事はありません。  お寺におりますといろんな相談を受けますが、お墓に関するご相談はその中でもトップスリーに入ります。

 お墓も昨今の住宅事情と同じように、近場ですと値段が非常に高く、手頃な値段ですと遠くて交通の便も悪い、といった具合です。やっと手に入れた墓地も、今度はまわりの者からなんだかんだと文句を言われたり、ソンナさんの例のように親切なふりをして墓相などで難癖をつける人が出てまいります。

 本屋さんへ行きますと「世にも不思議なお墓の…」とか、「風水による住宅改装」などたくさんの墓相・家相本が売られておりますが、そもそも墓相や家相は石材店や工務店などの販売戦略であると住職は見ております。なぜなら、それらの本の著者は、ほとんどと言っていいほど石材店関係者か住宅設計士などの建設業関係者だからです。

 先日も石材店の方とお話をしましたが、「家相にこだわる人が持ち込んだのが墓相でしょう。昔はこんな事なかったのですが。」と嘆いておりました。

 最近は下火になりました霊視鑑定も、卑劣な宗教団体による、恐怖心を利用した供養料強奪作戦なのです。

 ソンナさんにそのような忠告をした人もそのような悪質な石材店(誠実な石材店もたくさんありますが)の戦略にまんまと乗せられ、本の中にある「こんなお墓は子孫が絶える」などの項目を鵜呑みにしている人なのでしょう。

 結論を申しますと、お墓に墓相はありません。お墓の形によって結婚や家運が決定するのではありませんので、どのようなお墓を建てられても結構なのです。

 しかし、浄土真宗には浄土真宗の石碑の建て方がありますので参考までに記しておきましょう。

 まず墓石の正面は「南無阿弥陀仏」のお名号を刻みましょう。私たち浄土真宗の礼拝(救いを感謝すること)の対象は阿弥陀如来様です。よく「○○家先祖代々」と正面に刻んでいるお墓を目にしますが、私たちが手を合わせて感謝するのは阿弥陀如来様です。

 ご先祖様も大切ですが、私たちは何々家という狭い枠にとらわれることなく、阿弥陀如来という量り知れない働きの中に生かされて生きていることを感謝するのです。当然 ご先祖様もその阿弥陀如来の働きの中にあると考えますので、我が家のご先祖様だけに手を合わすのでなく、先に亡くなった先祖や家族を縁として阿弥陀如来そのものの働きに感謝するのです。

 また、正面を南無阿弥陀仏と刻むことは、縁のある方ならどなたでも一緒に埋葬できることになります。○○家と刻みますと「名字が同じでなければならない」、「結婚して姓が変わった者は入れてはならない」などの偏見を生み出す元となります。そんな考え方から解放されるのが浄土真宗ですので特に気をつけたいものです。

 梅宮ソンナさんご理解いただけましたでしょうか。お友達のケンジさんによろしく。

仏事の迷信Q&A(No.5)

Q 浄土真宗はお位牌を使わず、過去帳を用いると聞きましたがどうしてでしょうか。

 今回のご質問は他宗派のご家庭で生まれ育たれ、縁あって浄土真宗のご家庭に嫁がれました藤沢市にお住まいの鈴木園子(仮住所・仮名・色白)さんからです。

 お答えいたします。

 鈴木さんのようにお仏壇にお位牌があるのを当然のこととして育たれたお方には、浄土真宗のお仏壇のお飾り、特にお位牌がないということは驚きであるようです。

 そこでまず、お位牌や過去帳に対する浄土真宗の考え方をお話しいたします。  最初に、お位牌や過去帳とは何なのでしょうか。

 お位牌や過去帳に共通することは、亡くなられた方の法名(戒名)やお名前(俗名)、そして亡くなられた年月日と、亡くなられた時のご年令などを記入していることです。

 つまり、どちらも記録する手段の一つであることは間違いないようです。

 相違点はその材質です。位牌が木に漆や金箔を塗ったものであるのに対して、過去帳は紙で作られております。(厳密に申しますと紙も元々は木でしたが。)

 また、記入できる量も位牌と過去帳ではずいぶん違います。位牌が一人もしくは二人、差込式の位牌でも十人が限度であるのに対して、過去帳は五十人以上もの記録を書き込むことが出来ます。

 以上のことから浄土真宗で過去帳が広く用いられてきた理由の一つをご理解いただけると思います。

 つまり、「亡くなられたお方を偲ぶ手段としての記録は、たくさん書けた方が便利だ」ということです。

 また、百年・二百年と年月を経ますと、お位牌を使っている場合お仏壇の中がお位牌だらけになってしまうからです。

 二つ目の理由は、お位牌も過去帳も礼拝の対象ではないということです。

 我々は記録に対して手を合わす宗派でなく、亡き人をご縁として阿弥陀如来の救いを聴聞し感謝してゆく宗派なのです。ですから礼拝の対象は阿弥陀如来であり、それは南無阿弥陀仏のお名号やご絵像・お木像が対象となります。

 お位牌を作りますとどうしてもお位牌に手を合わすようになってしまい、阿弥陀如来は二の次、三の次となってしまうのです。

 来恩寺有縁の方の中にも、他宗派の影響を受けてまれに お位牌を作られる方がおります。お位牌を作られても結構なのですが、「お仏壇の下の段に、中央をはずしてご安置して下さい」とお願いしましても、掃除するたびに上の段に移動し、ついにはご本尊を隠すように最上段中央に鎮座ましますことが多々あります。

 これは主客転倒ですので、このような間違いを犯さないためにも私たちは過去帳を用いるのです。

 それから、「お位牌に故人の魂を入れて下さい」とよく頼まれますが、そんなところに故人が入るはずもありませんし、仏様となられた故人の魂を我々人間が勝手に入れたり出したり出来るはずもありません。

 お位牌も過去帳も故人を偲ぶご縁としての記録なのです。宗派にこだわらず、鈴木さんのお父さんお母さんの記録も ぜひ記入して下さい。もちろんご友人も結構です。

仏事の迷信Q&A(No.6)

Q 通夜や葬儀の時はお仏壇の扉を閉じなければならないと聞きましたが本当でしょうか

 今回のご質問は、最近何かと周囲が騒がしい、平塚市にお住まいの石井笛子(仮住所・仮名・タックルをタコーと発音する)さんからです。

 お答えいたします。

 結論からまずお話しいたしますと、お仏壇の扉は通夜や葬儀・年忌などのご法事のおりはもちろん、毎日開けておくものです。

 お仏壇の扉を閉じるのは、引っ越しやお部屋の掃除の時ぐらいで、「通夜や葬儀の時は扉を閉じるように」と石井さんに教えられた方は、たぶんお仏壇を神棚と同じように考えておられるのだと思います。

 神道(神棚をまつる宗派)では死をケガレと考えておりますので、ご家族のどなたかが亡くなりますと、神さま(ご神体)を死から遠ざけるために半紙などで目隠しの張り紙をしたり、神棚の扉を閉じるのが普通のようです。

 仏教は神道のように死をケガレと見るようなことはありません。むしろ、親しい者の死を尊い縁として自らの死の問題に気づく事の大切さ、そしてその死を超えて行く道を教えてくれるのが仏教であり、死を大切にする宗教なのです。

 ですから、教えや救いの象徴(浄土真宗ではお浄土を表現している)であるお仏壇は必ず開けておきます。

 そして悲しみの中から、お浄土に仏さまとして生まれられた亡き人を偲び、共にまた会える世界(アミダと呼ばれるハタラキの世界・お浄土)のあることを聞き続けてゆく尊いご縁がお仏壇なのです。

 考えてみますと、神道に限らず、死という人生の一大事、残された家族のもっとも大きな悲しみに背を向け、「私には関係ない」と死に無関心を粧う宗教とはいかがなものでしょうか。

 特に死をケガレとする考え方・教えは、死者を冒涜し、死を悪視することになり、生に執着し、死は敗北であり恐怖すべきものといった負のイメージを植え付けます。もし死が敗北であるなら勝者はどこにも存在しません。

 また、ケガレの思想は差別を生み出してまいりました。職業による差別や部落差別・女性差別も、死穢や血穢といったケガレの思想から出発しております。

 仏教は生死一如・一切平等を説く宗教です。生と死は切り離して考えるものでなく、生あるところ必ず死があり、「死もまた我らなり」と、死を厳粛に受け止める宗教が仏教です。そしてすべての命を平等に見ることの出来る智慧をいただく宗教なのです。

 ところで、神棚を家に祀るようになったのはそんなに古いことではありません。

 明治以後の神道国家化政策のため、富国強兵、天皇現人神の思想と共に、神棚を家の中に祀るよう時々の権力者が強制したものです。

 結果、日本は大きな犠牲を伴う悲しい侵略戦争へと突き進んで行きました。

 しかし、未だに神道国家化政策から抜けきれない人々が多くおります。神棚は昔からあるもので、神棚を外すと何か良くない事が起こるという呪縛に取り憑かれた人々です。

 来恩寺にご縁のある方々はそのような呪縛から解放されましょう。自らの信仰は一つで十分なのですから。

 以上、神棚とお仏壇の違いをご理解いただけました?石井さん。

仏事の迷信Q&A(No.7)

Q 戒名や法名は長い方が良く、短いと亡くなった者が成仏しないと聞きましたが本当でしょうか。

 今月のご質問は突然の離婚問題で頭を悩ませておられる「まずかった弘樹(仮名)」さんからです。

 お答えします。

 まず最初に、浄土真宗は戒名と呼ばずに法名と言います。戒名とは自力聖道門の方々が出家の際に、今後守らなければならない戒律を師から授かったときに付けてもらう名前を言います。

 浄土真宗は出家によって戒律を守る生活を強いる宗派ではありませんので、戒名という言い方は私たちにふさわしくありません。

 私たちは在家の生活を続けながら阿弥陀如来の救いを聞いてゆく宗派ですので、法(教え)の名前として釈尊(お釈迦様)の釋の字を一字いただき法名と言います。

 法名は亡くなる前に帰敬式(おかみそり)を受けて、ご門主よりいただくのが本来の姿ですが、生前そのような機会のなかった人には葬儀に際して住職がご門主に代わって付けます。

 法名をいただくことによって生前は仏教徒、特に浄土真宗の門徒としての意識が深まり、亡くなってからは家族が故人を仏様と受け止めてゆくご縁となります。

 問題の字数ですが、浄土真宗は釋○○といういわゆる二字法名です。十年ほど前までは女性にだけ尼という字が付けられておりましたが、現在は男性も女性も二字法名に統一されております。ちなみに住職の法名は釋正信です。

 二字法名のほかに○○院という院号がつく場合がありますが、院号は宗派やお寺に貢献のあった方に贈られるものです。現在は財施(お金による布施・寄付等)をされた方にお扱い(お礼の品)の一つとして院号が下付されておりますが、住職の個人的な考えでは貧富や家柄といった差別に利用されるおそれがありますので、浄土真宗はすべて二字法名に統一した方がいいのではないかと思います。

 そのほか、他宗派では居士や信士、大姉や信女といった位号を付ける宗派もありますが、浄土真宗では一切付けません。これらの位号は差別に結びつくものだからです。

 浄土真宗寺院でも他宗派の影響を受けて過去の一時期から位号を付けている寺院があります。しかし、それらの寺院のほとんどの住職は正しい二字法名に直したいと考えておられますが、過去の遺物は思うように改められないのが現実のようです。

 それはつまり弘樹さんの質問のように「戒名は長い方が良い」と考えておられる方が大勢いるからです。

 戒名や法名の字数と故人の成仏はまったく関係ありません。むしろそのような迷信に振り回されて字数が多い方が良いと考える私たちの姿勢に問題があります。逆にそれら迷信に潜む差別性を見抜く目を持ちたいものです。

 私たちは阿弥陀如来の平等施一切(すべての者に等しく功徳を与えたい)の心をいただく浄土真宗の門徒です。徹底した平等意識を持ち続けられた親鸞聖人の流れをくむ者として、ご質問のような考え方を持つ人には毅然とした態度で臨んでいただければと思います。

 まずかった弘樹さん、ご理解いただけましたでしょうか。ご夫婦間の問題が円満解決すればいいですね。

仏事の迷信Q&A(No.8)

Q 浄土真宗ではお仏壇にお茶やお水をお供えしないと聞きましたがどうしてですか。

 今回のご質問はご近所では早口で有名な藤沢市にお住まいの白柳徹子(仮住所・仮名)さんからです。

 お答えいたします。

 徹子さんのご指摘の通り、私たち浄土真宗の門徒はお仏壇にお茶やお水を供えません。普段お供えするのは御仏飯だけです。故人の年回法要や親鸞聖人報恩講法要、あるいはお正月やお彼岸・お盆といった行事にはお餅や菓子・果物をお供えいたしますが、毎日のお供えは御仏飯だけです。

そしてお仏壇でのお参り(日常お読みするのは正信偈と和讃六首)を終えますと阿弥陀様からの「おさがり」として御仏飯をいただきます。

 お茶やお水をお供えしない理由をご説明したいと思いますが、その前にお仏壇にお茶やお水をお供えする心持ちを考えてみましょう。

 まず、お仏壇にお茶やお水をお供えする人たちは誰に対して、何に対してお供えをしているのでしょうか。

 それはたぶん故人ではないかと思います。亡くなられた者はノドが渇いている、だからお茶やお水をお供えしてあげないとかわいそうだ。といった想いからお供えする人がほとんどだと思います。

 「末期の水」という言葉があります。人の臨終(死の直前)に際してクチビルを湿す水のことですが、確かに臨終の危篤状態が長く続けば、食事や水をとることが出来ませんのでクチビルも乾きます。見守る者の心情として最後に水の一滴でも飲ませてあげたいという気持ちは痛いほど理解できます。

 今から十七年前、私の父はたった三日の入院で亡くなりました。五十一才でした。

 二日目から危篤状態に陥り、危篤となる直前まで水を飲みたいと申しておりました。臨終の苦しそうな呼吸を見ておりますと、「末期の水」という言葉も実感を持って理解できます。

 でもそれは臨終に際してのことです。

 臨終後の父はこの娑婆世界の苦を離れ、お浄土に仏さまとして往生いたしました。

 仏説阿弥陀経に、「お浄土には七宝の池があり、その中は八つの功徳の水が満ちている」と説かれておりますが、これは「心配するな、お浄土に往生した者は生きているあなた達より幸せですよ」とのお釈迦様のお説法と私は受け止めております。

 特に最近の風潮として気になりますのは、生きている者が亡くなった者を「見下している」と言うことです。具体的には「亡くなった者はお腹を空かせている」「ノドが渇いている」「死んでかわいそうだ」と考え、「お供えをしてあげる」「お経を読んであげる」と言った風に、「何々をしてあげる」という気持ちを持つことが「見下している」ということです。

ですから、「故人のため」と、お供えするお茶やお水は、故人を見下すことになってしまうのです。

 浄土真宗は私へのいただきものを阿弥陀如来に感謝するためにお仏壇にお供えするのです。それは私が私のお金で買ってきた物であってもです。

尊いご縁によって今私がこの食べ物をいただく事が出来る、そのことを感謝するのです。御仏飯はその代表です。

 徹子さん、ぜひ浄土真宗のこの考え方をご理解下さい。

仏事の迷信Q&A(No.9)

Q お祖母ちゃんは、お仏壇とお墓のどちらにいるの?

 今回のご質問は、大好きなお祖母ちゃんを最近亡くした茅ヶ崎市にお住まいの大野屋石子(仮住所・仮名・コマーシャル好き)ちゃんです。

 お答えいたします。

 石子ちゃんの大好きなお祖母ちゃんはお仏壇とお墓のどちらにもおりません。お祖母ちゃんはいつも石子ちゃんの側におられるのです。

 石子ちゃんが嬉しいときはお祖母ちゃんも一緒に喜んでくれます。石子ちゃんが悲しいときはお祖母ちゃんも一緒に泣いてくれます。

 お祖母ちゃんは石子ちゃんに『嬉しいときも悲しいときも石子は一人ぼっちではありませんよ。お祖母ちゃんはいつも石子の側におります。だから安心して石子は石子の命を力一杯生きて下さい。』と呼びかけておられるのです。

 石子ちゃんには難しいかも知れませんが、それは阿弥陀如来さまのハタラキの中にお祖母ちゃんが生きておられるということです。姿は見えなくなってもお祖母ちゃんのハタラキは石子ちゃんの人間としての命がある限り続きます。

 例えば、石子ちゃんがお祖母ちゃんを想って涙を流すとき、その涙の元はお祖母ちゃんのハタラキなのです。なぜなら、私たちは何でもないときに涙を流すことが出来ません。ハタラキがあって初めて涙を流すことが出来るのです。

 つまり、石子ちゃんの目から涙がこぼれるのは、生きていたときと同じようにお祖母ちゃんが石子ちゃんの中に生き続けているからです。その生き続けているということが働いておられるということなのです。

 私たち浄土真宗は死んでおしまいとは考えません。たとえその身は滅んでもハタラキの仏さまとして生き続けておられるのが亡くなった愛しい方々なのです。むしろ生きているとき以上に強くそのハタラキを受けているのです。

 さあそこで石子ちゃんの質問をもう一度考えてみましょう。「お祖母ちゃんはお仏壇とお墓のどちらにいるのでしょうか。」  もしお仏壇と答えた場合、お祖母ちゃんはお仏壇に取り憑いた亡霊のようになってしまいます。同じようにお墓と答えた場合もお墓に行かなければお祖母ちゃんと会えないことになります。

 ハタラキの仏さまとなられたお祖母ちゃんを固定的に考えてしまうのは間違いです。

 お仏壇はお浄土や阿弥陀如来のハタラキを表したものですが、お仏壇イコールお浄土、阿弥陀如来の御絵像イコール阿弥陀如来ではないのです。

 お墓も同じことです。確かにお墓にはお祖母ちゃんの御遺骨が埋葬されておりますが、お祖母ちゃんのお骨イコールお祖母ちゃんではありません。

 また、お骨を亡くなった人そのもののように考え、いつまでも埋葬せずに大事に家に置いておられる方もいらっしゃいますが、それでは亡くなったお方のハタラキに背を向けてしまうことになります。

 亡くなった方を大事に思われるのであれば、そのハタラキに耳を傾け、その死を無駄にしないということはどういうことなのかを考えて下さい。

 石子ちゃん、お釈迦さまや親鸞さまは、お祖母ちゃんは南無阿弥陀仏のお念仏の中に生き続けておられますと私たちに教えて下さいました。

仏事の迷信Q&A(No.10)

Q 亡くなった家族の霊のようなものを見たのですが、成仏していないのでしょうか。

 今回のご質問は神戸にお住まいで最近何かと世間の風当たりが強い、野村沙知夫(仮住所・仮名)さんからです。

 お答えいたします。

 亡くなった方の幽霊とか亡霊とかを見たという話をよく聞きますが、沙知夫さんも見られましたか。

 私も亡くなった父を幽霊でもいいから見たいと思うのですが、なかなかそのような形で出てきてはくれません。 たまに夢に出てきてくれるぐらいです。

 ですから沙知夫さんのように親しい人が出てきてくれたらどんなに嬉しいことだろうと思います。それは宝くじに当たるより確率が低いことではないでしょうか。

 ところが多くの方はそのような喜ばしいことを否定的に考えております。「何か悪いことが起こるのではないだろうか。」とか、「きっとこの世に未練があるのだ。」とかです。

 亡くなった人が何か悪いことを引き起こすことはまず考えられません。特に大事な家族に故人が危害を加えるようなことは私にはとうてい考えられないのです。

 また、幾つで亡くなっても、どのような亡くなり方をしても、みんなこの世に何某かの未練を残して死んでゆくのではないでしょうか。

 どうもそのようにいわゆる幽霊を見たり、見たことを否定的に考える人は、生前に故人との間に何か問題があったか、現在精神的にダウンしている状態か、あるいは誰かにとんでもないことを吹き込まれているかのいずれかだと思います。

 私の経験ですと、両親や家族といった、まわりに迷信深い人がいる場合、そのような幽霊とか亡霊、あるいは霊現象を信じる人が多いようです。

 仏教では諸行無常(あらゆるものが一瞬一瞬の間に移り変わっている)や無我(我と呼べるようなものを何一つ持たない私、縁によって成り立っている私の存在)を説きますので、霊魂のように亡くなっても生前のような姿や心(恨みや悲しみの心)を持つといった固定的な存在は認めません。

 しかし、見たと信じきっている人には(たとえそれが幻覚や錯覚であっても)恐怖の存在として幽霊や霊魂はあるようです。

 本人が見たと信じている場合、まわりの者が何を言っても聞き入れてくれませんが、でもこのことだけは気をつけていただきたいものです。

 それは、故人をそのように迷いの存在とか悪霊と考えることだけは止めていただきたいということです。

 故人の幽霊を見たと信じておられることは結構ですが、故人が厄をもたらすなどと否定的に考えることだけは止めましょう。

 もし自分の目や精神状態に自信があり、幽霊を見たと信じておられるのなら、見たことを感謝しましょう。

 そして、そのような幽霊になってまで私のことを心配し続けて下さる、尊い仏さまに故人がなられたと考えてはいかがでしょうか。

 沙知夫さん、もし今度また故人の幽霊を見られたならば、じっくりと話し合われることを提案いたします。幽霊が話し合いに応じてくれるかどうか分かりませんが、とにかく対話が大事です。

  喧嘩しないで仲良くしましょう。

仏事の迷信Q&A(No.11)

Q 葬儀ノ後ニ「精進オトシ」ヲシナイトダメダト言ワレマシタ。「精進オトシ」ッテ何デスカ。

 今回のご質問は、一九九九年八月になってすっかり信用を無くしてしまったローマにお住まいのノストラダメス(仮住所・仮名・予言好き)さんからです。

 お答えいたします。

 ダメスさんのご質問の「精進おとし」を『仏教語大辞典』(中村元著・東京書籍)で調べてみましたが、「精進」はあっても「精進おとし」は載っておりませんでした。どうやら仏教語ではないようです。

 『大辞林』(三省堂)で調べてみますと、「精進明けに、普段の生活に戻る際に肉食・飲酒などをすること。」とあります。では、「精進明け」はというと「精進の期間が終わって普段の生活に戻ること。」 とありました。

 どちらも「精進」という期間を終え、普段の生活に戻るということですが、では「精進」とはどのような期間かというと、同じく大辞林に、「@肉食をやめ、菜食すること。A戒律を守ったり、禁忌を避けたりして心身を清らかに保ち、信仰に励むこと。Bひたすら仏道修行に努め励むこと。」とあります。

 つまり、「精進おとし」とは前記@ABのような生活をしていた人がそのような生活をやめ、普段の生活に戻る最初の肉食・飲酒のことを言うようです。

 しかし、誰かがダメスさんに言われた「葬儀の後に精進おとしをしないとだめだ」の精進と、仏教でいう精進とは意味が違うように思います。

 神道などの葬儀の後の食事を「お清め」と呼んでいることと同じ「ケガレを落とす」という意味が「精進おとし」という言葉にもあるのではないでしょうか。

 つまり「精進おとし」の場合の「精進」はケガレという意味が含まれているのです。 だから「しないとだめだ」という表現を使うのだと思います。

 仏教には「ケガレ」の思想がありませんので、葬儀の後の食事などを「お清め」とか「精進おとし」と呼ぶことはありません。

 特に長期に亘っての修行や信仰に励み、仏道に努めるという意味の「精進」を、精進もしていない人がいかにも精進しておりましたといった顔で「落とす」などと表現することは厚顔無恥というものです。

 私たち仏教徒は決して葬儀の後の食事などを「精進おとし」と呼んではならないと思います。そして仏事に神道のケガレの思想を持ち込まないようにしましょう。

 では仏教ではそのような仏事の際の食事を何と呼ぶかと申しますと、「お斎(とき)」と呼んでおります。「お斎」にはケガレを落とすとか清めるといった意味は含みません。

 「斎場」も本来は僧侶の食事場・仏事の後の食事の会場といった意味でしたが、現在では仏事の会場・通夜葬儀の場所といった意味に変化したようです。

 市や公共の斎場の中には食事をさせないところもあると聞きましたが、それでは斎場とは呼べません。食事をして初めて「斎場」なのですから。

 ダメスさんご理解いただけたでしょうか。私たちの回りには何かと難癖をつける人もおりますが、正しい意味を知ることが大事です。それから、人を惑わす予言も慎みましょうね。

仏事の迷信Q&A(No.12)

Q 葬儀や法事の際の御布施の額はどれ位が適当でしょうか。平均があれば教えて下さい。

 今回のご質問は寒川町にお住まいで歌の上手な布施アキラカさん(仮住所・仮名)ですが、今回を持ちまして仮名の使用は終了とさせていただきます。質問の内容に答えるよりも仮名を考える方に相当の時間を費やしてしまいますので…。あしからず。

 さて、この御布施に関するご質問は「来恩寺仏事の質問」第1位にランクされるぐらいよくいただくご質問です。

 さっそくお答えいたしますので心してお読み下さい。

 オウム真理教では全財産が適当な御布施の額です。以上。

 「・・・・」

 紙面にまだ余裕がありますのでもう少し詳しくご説明いたしましょう。

 布施とは梵語ダーナの漢訳で、檀那・檀と音写します。

 意味は他に与えること、ほどこしの意で、財物を施すことを財施、法を説くことを法施、無畏(おそれなき心)を施すことを無畏施といいこれを三檀と言います。このほかにも無財の七施といって身体で出来る布施もあります。

 また布施は、施す者も、施される者も、布施そのものである施物も、本来的に空であるとされ、執着の心を離れてなされるべきものとされております。

 なんだか難しくなってまいりましたが簡単に申しますと、 皆さんが街角で赤い羽根共同募金に寄付をされるのは財施です。また、今はあまり見かけませんが、ご近所同士で醤油や味噌を借りたり貸したりするのも財施だと思いますし、昔はお寺への布施もお金だけでなく米や野菜でする人が多かったと聞いております。

 来恩寺でも家庭菜園で作られたナスやキュウリ、その他の野菜をいただくことがありますが、尊い財施としていただいておりますし、法話会の前にはお寺の掃除に来て下さったり、法話会の後はコップや湯飲みなどの片づけ物をして下さる方もおられます。このような方々も尊い布施をして下さっておられるのです。

 そこで今回のご質問に戻りますが、このご質問は御布施を料金か報酬と勘違いされたところに起こるご質問だと思います。つまり見返りとして差し出す物が御布施であると考えられておられるのです。

 それは間違いです。

 皆さんは共同募金に寄付をして見返りを求めるでしょうか。野菜や身体で布施をして下さる方々は見返りを期待しているのでしょうか。

 答えは「ノー」です。

 布施とは自発的なほどこしのことです。自発的なほどこしに適当な額などありません。

 来恩寺では葬儀や法事の布施の額を決めておりませんし、平均を計算したこともありません。布施の額を決めたり、寄付を強制するお寺もあるようですが、自発的な御布施で運営できないようなお寺はつぶれればいいと思います。

 来恩寺も自発的な御布施で運営できないようであればつぶれても仕方ないと思います。健全な活動を行っているお寺は自然に皆さんが布施をして下さると住職は考えているからです。

 それからお金での御布施は僧侶でなくお寺にするものです。お寺の活動、つまり御法義繁盛の一助として施すのが本来の御布施なのです。

 御布施はほどこしの心。来恩寺にご縁のある方は大きなほどこしの心を持ちましょう。

仏事の迷信Q&A(No.13)

Q 亡くなった者には旅支度をさせて送らなければ迷うと聞きましたが本当でしょうか。

 旅支度とは俗に言う死者の旅装束と、亡くなった者の枕元や棺の中に納める様々な品のことだと思いますが、死者に旅支度をさせて送り出す風習は日本古来の土俗信仰から来ており、そのような信仰が仏教の儀式にも入り込み、仏教の葬儀や法事でありながら仏教以外の考え方で儀式が行われているのが現状のようです。

 今回の質問者はそのようなところに疑問を感じたのだと思いますが、ぜひ仏教本来の考え方をご理解いただければと思います。

 ではまず、その日本古来の土俗信仰の中身は何かというと、「人が亡くなれば冥土という所へ旅をする。」そして「ちゃんとたどり着かなければまたこの世に悪霊として戻り、生きている者に禍をもたらす。」という考えです。

 死者に旅装束を着けさせるのは、「あなたはもう亡くなったのです。ちゃんと冥土へ行きなさい。」「二度とこの世界に帰ってきてはいけません。」と伝えているのです。

 また、枕元の団子は旅の途中のお弁当です。冥土までどれくらいかかるのか知りませんが、途中でお腹を空かせてまたこの世に戻って来てもらっては困るといった考え方があるようです。

 死者の枕元に一本の箸を立てた一膳飯をお供えするのは、死者の霊の宿り木だそうです。亡くなった人の魂が家の中を漂うのを防ぐため、食べ物を用意してそちらにじっとしているようにとのことです。霊を怖れる気持ちから来ているのでしょうが、死者の霊をまるでハエのように考えております。

 棺の中に六文銭を入れるのは、三途の川の渡し賃だそうです。三途とは仏教で説く地獄・餓鬼・畜生という迷いの世界のことですが、これらの世界はなにも亡くなってから先の世界のことでなく、私達が現実に作り出している世界をお釈迦さまが説かれたものです。「せめて三途というひどい世界だけは越えてくれ」といった気持ちが六文銭という渡し賃につながったのだと思いますが、結局は渡ったら帰ってくるなという発想から来ております。(片道六文なら十二文を入れればまた帰って来たりして…。)

 それから、旅支度とは少し違いますが、死者の胸元や棺の上に「守り刀」を置くといった風習もあります。これは亡くなった者は霊が抜けているので他の霊が乗り移りやすいと考え、悪霊などが死者に取り憑かないようにと刀で守ることです。

 以上、今回は旅支度の代表的なものを取り上げましたが、これらの土俗信仰はすべて霊を怖れる「霊信仰」と言ってよいと思います。「慰霊」「鎮魂」の思想です。

 ところが釈尊の説かれた仏教はこれら霊信仰を否定するものなのです。すべてのものは移り変わる(諸行無常)、すべてのものに霊魂のような固定的なものはない(諸法無我)を説き、縁によって成立(縁起の法)しているのが我々の本当の姿であると仏教は明らかにしております。

 この世との縁が尽きれば我々の命は終わりますが、その死を縁としてまた新たな世界が展開して行きます。実体は無いがハタラキとしてあるのです。死者の旅支度は必要なし。迷いは死者でなく生者です。

仏事の迷信Q&A(No.14)

御香典は四十九日までが御霊前で、四十九日が過ぎると御仏前と表書きすると聞きましたが…。

 お答えいたします。

 まず四十九日の考え方についてお話しいたします。 四十九日の起源は中国の「中陰」あるいは「中有」と呼ばれる考え方・思想がもととなっているようです。

 その考え方とは、人が亡くなりますと初七日・二七日というように一週間毎にお裁き(裁判・審判)のようなものがあり、最後の七七日(四十九日)のお裁きによって、亡くなった方の行き先が決定する。というものですが、裁判長は有名な閻魔大王です。

 余談ですが、閻魔様はすべての人の生きていた間の行実を閻魔帳という帳面に記録しているそうです。地球の人口が六十億を超えた現在、これがまた大変な作業で、帳面も膨大な数になっているそうです。そろそろコンピューターでのデーターベース化も考えているようです。余談でした。

 この最後のお裁きがあるまで、亡くなった方はフワフワと漂ったような存在であると考えるのが中陰の思想ですが、仏教にはこの考え方はありません。

 いつの頃からか、中国のこの中陰の思想が仏教と結びついてしまって日本に入ってきました。

 そして七日毎の中陰のお参りは、亡くなった者が良い所に生まれますようにと始まったそうです。

 つまり、故人への追善廻向(亡くなった者の代わりに生きている者が善を行い、亡くなった者へその徳を振り向けること、この場合は経を読むことが善と考えている)が一般的な中陰の法要となっております。お経をまるでワイロのように考え、裁判官に甘い判決をお願いしているのと同じです。

 これは仏教ではありません。もちろん浄土真宗もこんな考え方をいたしません。

 亡くなった方は亡くなったその瞬間に大いなるハタラキの仏様となられたのです。多くの真実を我々に教えて下さり、私達の勝手な考えを打ち砕いて下さるのです。フワフワと漂う綿ボコリのような存在ではないのです。

 すべての法要がそうですが、浄土真宗にとっての中陰の法要は、この私が、亡き人に導かれて教えを聞く場としてあるのです。このことを忘れてはなりません。

 前置きが長くなってしまいましたが、御香典の表書きにはどのような場合でも「御霊前」と書かないのが本来の仏教です。それは霊という言葉には、成仏していないという考え方があるからです。

 ご質問の「四十九日までが御霊前で…」と教えてくれた方も、中国の中陰の思想を仏教の考え方だと誤解されて話されたと思います。その考え方は仏教ではないとぜひ教えてあげて下さい。

 仏教徒は「御仏前」です。そしてこの場合の仏は阿弥陀さまのことです。阿弥陀さまにお供えして下さいと言って差し出すのが御仏前なのです。

あるいは「御香資」「御香典」でも結構だと思います。私は「御香資」「御香」とよく表書きいたします。意味は、お香を供えて下さい。お香でお荘厳して下さい。というものです。

 それから、僧侶への御布施の表書きはすべて「御布施」で結構です。「読経料」ではありません。

念のため…。

仏事の迷信Q&A(No.15)

Q 身内の死や事故・病気などの不幸が続いた時、友人から「宗派を変えなさい」と言われましたが…。

 お答えいたします。

 思いがけない事故や病気、そして身内の死などが重なりますと、人間は不安になるものです。

 そして、その原因を方角や日の善し悪し、先祖や水子のたたりなどに責任転嫁する方がおられますが、すべての結果には原因と条件(縁)がありますのでぜひ正しい見方・考え方をしていただければと思います。

 このご質問で心配になりますのは、「友人」の言葉を鵜呑みにして、信ずる宗教宗派によって禍を受けたり、逆に禍から逃れることが出来るように勘違いをされることです。

 人間は自分にとって都合の良いことは喜んで受け入れ、都合の悪いことは他のせいにしたり逃げたりいたしますが、私達の思い通りにならないのが人生です。

 本当の宗教はそのような禍や不都合をしっかりと受け止め、乗り越え、思い通りならないことを思い通りにしようとする人間の傲慢さを教えてくれるものです。

 偽の宗教は人間の欲や不安に便乗して抜け出すことの出来ない世界へと人間を追い込みます。気をつけて下さい。

 そこで最近問題になっているカルト的な宗教の洗脳術の一部をご紹介いたしますのでご一緒に考えてみて下さい。

 ある宗教の洗脳マニュアルです。

 @コンタクト
友人や知人、ご近所などで不幸な話を聞くと同情したように何回も訪れる。

 A恐怖心を植え付ける
さりげなく家族の過去の出来事などを調べ、たたりとか霊障などの話をする。

 B友人を紹介する
同じような経験をし、入信して救われたという友人を紹介する。

 Cセミナーや集会に誘う。
宗教名を明らかにせずセミナーや集会に何度も誘い、他の救われたという信者と引き合わせる。仲間意識を植え付ける。

 D他の宗教を批判する。
他の宗教に入っていた者が不幸になった話やその宗教の悪口を続ける。

 E情報操作
自分の宗派に都合の悪い事件や事故、あるいは教義を隠す。特に脱会者などとのコンタクトを妨害する。

 F他の信者との差別化を図る。
教団幹部などへの昇進話で名誉欲と金銭欲をあおる。

 G団体で行動する。
会員としか付き合わず、一般社会との関係を絶つ。特に仕事関係では会員の店との付き合い、買い物を強制する。(会員の店は入信したお陰で商売が繁盛したと勘違いする。)

 H永久洗脳
教団を離脱すると不幸が重なるなどと恐怖心を植え付け、一生涯信者であることを強要する。

などです。

 人間の恐怖心や不安そして精神状態を巧に利用した勧誘と洗脳の方法です。

 特にいわゆる不幸な目にあった人をターゲットとし、卑劣な方法でそっと忍び寄ってくるのがこれらカルト集団です。

 身内や自分に起こる事故や病気・死には必ず原因があり、起きるべくして起きるものなのです。時には続いて起きることもよくあることです。そんなとき、本当の宗教は力強く乗り越えていく道を示してくれるのです。禍に遭わないのでなく乗り越えるのです。

仏事の迷信Q&A(No.16)

Q.結婚式をどこで挙げればいいか悩んでいます。 やっぱり神社か教会でしょうか。

 お答えします。

 あなたが神道かキリスト教徒であれば神社や教会で結婚式を挙げても何の問題もありません。

 でもあなたやあなたのお家の方が仏教徒であれば神社や教会での結婚式は神様を冒涜することになり、神前での三三九度の盃や、神様への誓いの言葉も嘘になってしまいます。

 信じてもいないものの前でのそのような行為はただの儀式であり、形だけの中身のないものなのです。

 もしあなた、もしくはあなたの家が仏教徒、特に浄土真宗の門徒でしたら、結婚式は阿弥陀さまの前、つまり仏前で行うのが本当です。

 阿弥陀さまの前で三三九度の盃を交わし、誓いの言葉を表明するのです。

 『阿弥陀さま見ていて下さい。聞いて下さい。私はこの者と結婚いたします。二人の行く手には数々の困難や苦しみがあるかも知れません。でも何があっても互いに心から信頼し幸せな家庭を築きたいと思います。どうかその大いなる慈悲とはかりしれない智慧で、いつまでも私達をお導き下さい。』と誓うのが私達浄土真宗の仏前結婚式なのです。披露宴はどこで行ってもかまいませんが、結婚式は自分の信じている宗教宗派で行いましょう。

 私の友人の住職が親しくしているキリスト教カソリック東京神学校講師小笠原神父さんの話によりますと、ホテルのチャペルでキリスト教式の結婚式を行っている牧師や神父は、ほとんどがそういった資格のないアルバイトだということです。ひょっとするとホテルでの神前結婚式の神主さんや巫女さんも臨時雇いのアルバイトかも知れません。

 こちらの方も神様を冒涜していると思うのですが、本物の神父や神主さんの前で結婚式を挙げていると信じている者はもっと哀れです。

 やはり結婚式は自分の信じている宗教の、そして日頃から付き合いのある神父や神主、そして僧侶にお願いするのが本当だと思います。

 若い二人にそのような人たちとの付き合いがないのであれば、親や祖父母に聞いてみるのも良いでしょう。「私の家は何宗なの?」「お寺(神社・教会)はどこ?」「お父さんやお母さんは何を信じてるの?」といった具合にです。

 結婚してからも今までご縁のあった宗派を変えるつもりがないのであれば、結婚式や初参式(神道でいう宮参り)はやはりお手次ぎのお寺で行うことを奨めます。そのほうが子や孫の代まで親しくおつき合いが出来るからです。

 ハワイの小さなお寺の住職をしておりました二年半ほどの間に十二組の結婚式の司婚をいたしました。もちろん仏前結婚式です。その方達はみんな生まれたときからそのお寺にご縁のある方々でしたが、披露宴にも呼ばれ、皆さんが合掌する中、その場にあった食前の言葉(集まりによって食前の言葉が違う)のリーダーを務めたこともあります。

 来恩寺でも来恩寺で結婚式を挙げた方がお子さんの初参式や七五三のお祝いをお寺で行っております。そうやってお寺が子や孫の代まで心の拠り処となっていくのだと思います。

 結婚式を宗教の儀式と受け止めるならば、ぜひご自分の宗教で行って下さい。

仏事の迷信Q&A(No.17)

Q.浄土真宗では般若心経を読まないと聞きましたがどうしてでしょうか


 お答えいたします。

 ご指摘の通り浄土真宗では「般若心経」というお経は用いません。

 どうして用いないかと言いますと、浄土真宗は自分の力で悟りを開く宗派でなく、阿弥陀仏の救いを基本とする絶対他力の宗派だからです。

 ですから、親鸞聖人は浄土真宗のお経として「仏説無量寿経」「仏説観無量寿経」「仏説阿弥陀経」という阿弥陀如来の救いを説いた経典を選ばれました。

 ご質問の「般若心経」という経典は、人間が般若の智慧を得て、自ら悟る自力の道が説かれている経典なのです。

 そもそもお経は、お釈迦様のお説法をまとめたものですが、お釈迦様はその人に応じた説き方をされました。

 修行によって悟りを開ける者には、自らを律し煩悩を断つ自力聖道の道を説き、自分の力ではとうてい悟りを開くことが不可能な者には、絶対他力の阿弥陀仏の救いを説かれたのでした。

 数多く現存する経典も、この自力の教えと他力の教えに分けることができると思いますが、般若心経は自力の教えが説かれている経典ですので、親鸞聖人は、「これは私のような者に向かって説かれた教えではない」と、選ばれなかったのでした。

 しかし、自らの救いを説く経典ではありませんが、どの経典もお釈迦様のお説法をまとめたものですので大切にされたのも親鸞聖人です。

 ご理解いただけましたでしょうか。

 昔、葛根湯医者と呼ばれていたお医者さんがいたそうです。葛根湯は風邪薬なのですが、ケガや腹痛で来た患者さんにも与えていたそうです。当然、風邪薬がケガや腹痛に効くはずがありません。

 お経も同じ事ですが、自分に合った救いが説かれているお経でなければ読んでいても意味がないのです。

 このご質問で気になりますのは「どんなお経でも読んでおればいいんだ」といった、お経に対して間違った考え方が一般にあることです。

 お経は「読んでおればいい」といった性質のものでなく、私たちが釈尊のご説法として聞かせていただくものなのです。ですから内容が分からなければ、そこに説かれている「救い」も自分のものとはなりません。どんなによい薬も効能書きばかり読んでいても意味のないことです。飲まなければ効果はないのです。

 日本の各宗派が用いるほとんどのお経は、漢文で書かれておりますので理解しがたいと思いますが、分かりやすく解説した本もありますので書店などで探していただければと思います。

 また、浄土真宗ではどのお寺も「法話会」が開かれておりますが、これは難しい経典の内容を分かりやすくお話ししているものですので、機会がありましたらぜひご参加されてお経の内容を学んでいただければと思います。

 「般若心経」は全文で262文字という短いお経です。簡単に暗記もできますが、その内容はとても凡人に理解できるものではないと思います。ですから凡夫を自覚する浄土真宗では一切用いないのです。浄土真宗の人が日常に仏前で読むのでしたら、それは親鸞聖人の書かれた「正信偈」です。それも内容をよく味わってお読みしましょう。

仏事の迷信Q&A(No.18)

Q 自殺して亡くなった者は成仏しないと聞きましたが本当でしょうか。


 五木寛之さん著作の「人生の目的」(幻冬舎)に出ておりましたが、バブルの崩壊が始まった平成3年の自殺者は19、875人だそうです。

 それが平成10年は3万人の大台を超え、警視庁調べでは32、863人だったそうです。

 これは前年より34.7パーセントの増加率で、特に50代では45.7パーセントの増となっております。
 企業のリストラの影響もあると思いますが、根底には自分の未来に希望の持てない人々が増えている結果ではないかと思います。

 そしてそれは家庭や社会でちゃんとした宗教教育がなされてこなかったツケがまわって来ているような気がしてなりません。

 「生かされて生きている」という宗教観・人間観の欠如です。

  *  *  *  *

 さて、ご質問にお答えいたします。

 『自殺して亡くなった者は成仏できない』とは誰が言い出した事でしょう。

 他の宗教はいざ知らず、決して仏教はこんな事を言いません。

 成仏した・していないは私たちには分からないことです。

 何を根拠にこんな事を言うのでしょう。殺生罪でしょうか。

 ご存じのように仏教では不殺生戒という戒律があります。ものの命を奪ってはならないという掟です。

 すべてのものの命を平等に見る仏教では、人間のために存在している命は一つもありません。牛も豚も鶏も魚も植物も鯨もイルカも虫も細菌も、すべての命は平等で尊いものであると考えております。

 そこには、「牛は良いが鯨は殺してはならない」といった理論がありません。極論すれば「ハエは殺して良いが人間はダメ」といった考えを持たないのが仏教です。ハエも人間も同じ尊い命を生きていると考えるのが仏教なのです。

 そのような教えの上から見ますと、魚や動・植物を毎日食べ続けている私たちと、自らの命を絶った者とどのような違いがあるのでしょうか。 他の命を殺しても成仏できるが、自分を殺した者は成仏できないというこの考えが仏教にないことは明らかです。

 つまり、自他の命を奪うという、不殺生戒を破った者が成仏できないならば、地球上のすべてのものは成仏できません。

 釈尊は「死の縁無量」と述べられました。これは、私たちが亡くなっていくのは何が縁となるか分からないということです。病気が縁となるかも知れません。交通事故、あるいはバナナの皮で滑って亡くなるかも知れません。どのような亡くなり方であっても亡くなり方によって成仏が決まるとは一言もおっしゃっておられないのです。

 自殺も一つの死の縁です。残されたご家族にとっては無念でならないと思いますが、どうか無量の縁の中の一つと考えていただきたいと思います。そして大事なことはその死を無駄にしてはならないということです。

 殺生罪などの悪を重ねながらしか生きられない私たちのために、阿弥陀如来の大いなる救いがあることを故人を縁に聞くのです。そして故人をそのような尊い縁と受け止められたとき、私たちは故人の成仏を確信するのです。

仏事の迷信Q&A(No.19)

Q.お仏壇を買ったら御本尊がサービスでついてきました。そんな市販の御本尊でも良いのでしょうか。


 お答えいたします。

 仏具を大事にし、宗教・宗派を大切にする仏具店・仏壇店は、決して質問者の体験されたような、サービスで御本尊をつけるようなことはいたしません。

 何故なら、お仏壇は御本尊がいのちですから…。

 各宗派の教えも同じ事だと思いますが、お仏壇は御本尊を安置する場所、そしてその御本尊には由来・おいわれがあるのです。由来おいわれに合致した御本尊であれば問題ありませんが、市販の御本尊のほとんどはそのようなことを無視したものです。

 ですから一生に一度ぐらいしかお迎えできない御本尊は本山から頂くのが安心です。

 そこで今回は、御本尊と両脇にかけられる御脇懸についてご説明いたします。

 浄土真宗の御本尊はお立ち姿の阿弥陀さまの御絵像・木像か、南無阿弥陀仏の御名号の掛け軸です。両脇は、向かって右が親鸞聖人の御影(絵)か帰命尽十方無碍光如来という御名号の掛け軸、向かって左は蓮如上人の御影か南無不可思議光如来の御名号です。

 御本尊の阿弥陀さまは絵像木像ともに両足を揃えて青い蓮華の上にお立ちです。

 これは、根を泥の中に置きながら美しい花を咲かす蓮華を、「泥のような迷いの中にも清らかな悟りがあることを示されたもの」で、両足を揃えているのは平生に阿弥陀如来の救いがあることを示しております。(浄土宗では臨終に阿弥陀さまが来てお救い下さるという意味で片足を前に出されおります。)

 右手を上に挙げておられるのは招喚(喚び声)を、左手を下に下げておられるのは摂取(救い取る)の心を顕わしており、指の形もいわれがあり厳密に定められております。

 お身体からは四十八本の金色の光が放たれておりますが、これは仏説無量寿経に説かれている、阿弥陀さまの四十八願があらゆる所に行き届いていることを表現しております。市販のものにはその数が四十七とか四十九のものがあると聞いております。

 その他、衣のひだの数に至るまでいわれがあり定められているのです。

 御名号の本尊は歴代のご門主が書かれたものを正式な名号本尊・名号脇懸といたします。名号の御脇懸は南無阿弥陀仏のハタラキを具体的に表現したものです。

 その他正式な御本尊・御脇懸には、本願寺の印が押してありますので一度ご確認下さい。

 さて、ご理解いただけましたでしょうか。御本尊には由来・いわれがあり、そのいわれを聞くことも大事なことです。

 お仏壇を買ったサービスについてくるような御本尊はほとんどがいいかげんな物です。

 よく考えて下さい。家を買うとサービスでお嫁さんがついてくるでしょうか。そんな馬鹿な話は聞いたことがありません。

 まず大事なお嫁さんを決め、それから家をどうするか二人で相談するのです。

 お仏壇も同じ事です。一番大切なのは御本尊なのです。 そんな大事な御本尊をお仏壇を買ったサービスにつけるような仏具店を私は信用いたしません。

 ご本山の御本尊を求められる方は来恩寺までご一報下さい。

仏事の迷信Q&A(No.20)

Q 宗教の目指すところはみんな同じだと言う人がおりますが・・。

 
 そんなことを言う人がおりますか…。

 ということは、「天声」とやらで足の裏を観て金をまきあげる宗教や、ミイラになっても生きていると主張し、私の身体には血が流れていないと言う定説教祖の宗教と、仏教や浄土真宗の目指すところも同じということになってしまいます。

 私は全然違う気がするのですが…。

 私なりの宗教観ですが、本物の宗教とは「普遍の真実」によって自他が明らかになるものだと思っております。逆に偽(にせ)の宗教とは自分の欲を満たす手段としてあるもの、あるいは教祖たちの思い込みや都合によって教義が変わってしまう宗教を言います。普遍性のない「天声」や「定説」「神のお告げ」などを持ち出す宗教は偽の宗教です。

 このような宗教に入信する人には相当の事情があることと思いますが、一般的に気軽に入信しやすいのが病気治しや金儲け・受験合格・人間関係改善などの欲を満たす手段としての宗教です。

 お正月の初詣はどこへ行かれました?。

 御利益を目当てに自分の宗教と関係ないところへ行っている人はすでに我欲を満たす宗教への入信過程を通過中です。ご注意下さい。

 「本物の宗教とは『普遍の真実』によって自他が明らかになる」と申しましたが、仏教の説く「普遍の真実」を少しご説明いたします。

 仏教の教えの根本は「縁起」です。一般に言われる「縁起をかつぐ」の縁起ではなく、すべてのものは「縁って起きている(様々な事象は様々な条件が整って起きる)」という普遍の真実のことです。

 以前にも書きましたが、仏教は神などの創造主を認める宗教ではありませんので、全宇宙のすべてのハタラキと存在は縁によって生じ、縁によって滅するのです。その縁は決して偶然のものでなく、必然として作用しているものなのです。

 その縁起の法を根本として展開される教えが、「諸行無常(すべてのものは移り変わっている)」「諸法無我(すべてのものに不変的固定的な我というものは存在しない)」という教えです。

 この教えを基に自らを見つめますと、全く逆の思いに縛られていることに気づきます。

 いつまでも若く健康で長生きしたい、子供たちはみんな元気で親孝行、仕事や生活も順風満帆など、勝手な思い込みを持ち、自分に都合が悪ければ、不平不満を言い、腹を立て、他人の幸せをねたみ、恨みを結ぶ、といった「諸行無常・諸法無我」に背を向けた生活を送っております。

 この縁起の法を体得すれば自他への執着心から発する悲しみも苦しみも、不平不満や愚痴も解消されます。でも、私たちには到達不可能な境地であります。

 むしろそのような自他に執着する自分であることに気づき、「縁起の法」そのものであるアミダというハタラキかけの中に自分がいることを自覚する。そして慚愧(深い反省)の生活と歓喜からの報恩の行動が真の人間の生き方である事を仏教という宗教は教えてくれるのです。

 宗教の目指すところはそれぞれ異なります。真と偽を見極める目を持ちましょう。

仏事の迷信Q&A(No.21)

Q.お仏壇やお位牌を買ったらお坊さんに魂を入れてもらいなさいと言われましたが…。

 プロ野球あるいは高校野球の投手が「ボールに魂を入れて投げました」と話しておりますのを聞きます。「一球入魂」のことです。 大事な場面での一球のことで、この場合の入魂は精神を集中することや気合いを入れることだと思いますが、私は今までお仏壇に向かって精神を集中している人や気合いを入れている人を見たことがありませんので、お仏壇に魂を入れる、あるいはお位牌に魂を入れるといった場合の入魂は精神集中とも気合いとも違うようです。

 結局は霊魂のような実体的な魂をお仏壇やお位牌に入れることだと思います。それはお仏壇ですと仏様の魂のことであり、お位牌ですと亡くなった者の魂のことです。

 私はご質問中のお坊さん・僧侶でありますが、御本尊である阿弥陀さまの魂や、亡くなった者の魂を、シルクハットから飛び出すハトのように入れたり出したり出来る手品師でも超能力者でもありませんので、申し訳ありませんが私には無理です。

 今回のようなご質問やお願いをされる方が結構おられます。どうも世の中にはいとも簡単にそのようなことが出来る僧侶が大勢おられるようですが、私の知る限り浄土真宗の僧侶には一人もそのようなことの出来る者はおりません。

 浄土真宗ではお位牌を用いず過去帳を使いますので、今回はお仏壇を買ったときの法要についてご説明いたします。

 浄土真宗以外の宗派では「開眼法要」や「お性根入れ」「お魂入れ」などと呼んでおりますが、私たちは御本尊を新しくお迎えする法要を「入仏法要」と呼んでおります。入仏法要の「入仏」とは新しく御本尊を家庭にお迎えいたしますといった意味です。

 当然、お仏壇だけを買って御本尊がなければ入仏法要は行いません。「お仏壇、本尊なければ、ただの箱」なのです。逆に御本尊が安置されておれば、たとえそれがミカン箱であってもお仏壇なのです。

 入仏法要は慶讃(慶びの)法要です。今まで家庭になかった御本尊をこのたび初めて安置する。あるいは古くなった御本尊にお礼をつけ、新たにご本山からお迎えすることは、今日から、あるいはこれからも、心のより処・生活の中心を阿弥陀さまの智慧と慈悲にさせていただくということなのです。

 ご家庭では主に絵に描いた阿弥陀さまをご安置いたしますが、絵像の阿弥陀さまは私たちがはかり知ることの出来ないアミダというハタラキを人間の姿のように表現して私たちに知らしているものです。 そのハタラキは智慧と慈悲です。後光と呼ばれる光は、欲と怒りと愚かさの中にいる私たちの迷いの闇を打ち破る智慧の光です。お立ち姿で右手を上に挙げ左手を下に下げておられるのは、苦しみ悩み迷える者を救うためにはじっとしていられない慈悲を表しているのです。

 このお姿を通して私たちは自分の愚かさに気づき大いなる慈悲を慶ばせていただくのです。今回のご質問でいうならば、仏様や亡くなった者の魂をどうにでも出来るといった思い上がりの心を知らせていただくのが御本尊なのです。 御本尊に手を合わし、お念仏の中で阿弥陀さまのお心に出会わせていただきましょう。

仏事の迷信Q&A(No.22)

Q.お仏壇の前にあるリンはどのようなときに打つのでしょうか。

 お仏壇のお道具の一つであるリンは、お経を読むときの合図としてあります。

 ですから、手を合わすだけでお経を読まないときはリンを打つ必要はありません。

 よくチンチンと2回ほどリンを打って手を合わしている人を見かけますが、たぶん神社の拝殿の前にぶら下がっている大きな鈴(正式には別の呼び名があると思いますが存じません)と勘違いしているのだと思います。

 神社の鈴は、神様に「今、私がお参りしております。よく見ていて下さい。お参りしているのは私です。お賽銭もはずみました。願い事はこれこれです。」と神様の注意を促すためにあるそうです。

 ある神社では拝殿の前で大きな鈴をガラガラと鳴らしてから、拝殿の裏側に回ってご神体が祀られている辺りをドンドン叩くそうです。そうしないと願い事を聞いてもらえないということです。

 神様がよっぽど呑気で鈍感なのか、それとも人間が神様を信用してないのか、なんとも困った神様と人間の関係です。

 私が神様ですと「そんなにうるさくせんでも聞いてるがな…」と、逆に神様を信用しない騒々しい人間の願いなど聞いてやるものかと思うことでしょう。

 話をもどしますと、お仏壇の前のリンは神社の鈴とは違い、お経の合図としてあるのです。

 通常お経の始まる前に「今からお経を読みます」の合図として2回リンを打ちます。打ち方はご家庭のリンですと、親指と人差し指・中指の3本の指でリン棒を下げて持ち、小さなリンですと手前の外側を、大きなリンですと手前の内側を打ちます。ゆっくりと1音・1音余韻を楽しみながら静かに打ちましょう。

 仏説阿弥陀経のようにお経が途中で切れるときは、切れる直前はだんだんゆっくり読み、読み終わったところで1回打ちます。お経を再開するときは始めと同じように2回打ち読み始めます。

 最後、お経が終わりますとリンを1回打ち、「ナン・マン・ダー・ブー」というお念仏を称えます。お念仏は六辺繰り返しますが、最初のお念仏の「ブー」で1回打ち、六辺目のお念仏の「ダー」あたりで最後のお念仏ですよという合図で1回打ちます。

 その後、普通は「願以此功徳」という回向句を読みますが、このときは最後の「往生安楽国」で3回打ちます。私は安楽国をゆっくり読み、ここで3回打ちます。

 このようにリンの打ち方が定まっておりますが、2回だと始まる、3回だと終わった、1回だとまだ途中、またはお念仏が終わったということがよく分かります。お経の本を見ていただきますと、リンの打つ箇所が記されていると思いますので参考にして下さい。

 とにかく、リンはお経を読むときの合図として用いるものです。神社の鈴のように神様・仏様の注意を引くためのものではありません。

 特に浄土真宗の阿弥陀さまは私たちが願ってから動く仏様ではありません。私たちより先に私たちに向かって願われている仏様なのです。

 その願いは私たちの勝手な欲を満たすためのものではありません。どのような状況の中にあっても私がいることに気づいて欲しいという阿弥陀さまの願いなのです。

仏事の迷信Q&A(No.23)

Q.浄土真宗の人を門徒と呼びますが、檀家とどう違うのでしょうか。

 お答えいたします。

 門徒とは「一門の徒輩」ということで、仏教各宗派でも使われておりましたが、現在は浄土真宗の信者を指す言葉となっております。

 檀家とは、梵(ボン)語のダーナパティという言葉から生まれたもので、元の意味は布施をする人のことです。

 日本では鎌倉時代以後に使われだした言葉で、信者の所属する寺院を檀那寺と呼び、寺に所属する者を檀家と呼んで世襲的に寺院を維持する体制を作りました。

 檀家という言葉が広く使われだしたのは江戸時代からで、宗旨人別帳、あるいは宗門改人別帳と呼ばれるものを寺院が作成し、管理する制度(いわゆる檀家制度)が徹底されたためです。

 江戸幕府は1660年以後、寺院に対して、檀家の各人がキリシタンでないことを証明し、檀家の武士や庶民の家の戸主・家族・奉公人・出入りの行商人などについてもその名前、年齢、所属の寺などを記した戸籍台帳のようなものを備え付けるよう命を下しました。

 寺院はこの台帳を元として、個人が自分の寺の檀家でありキリシタンでないこと、また、檀家の者の住居移転や奉公・結婚・旅行などの際には、寺請証文と呼ばれる証明書を発行しました。つまり寺院は、幕府の庶民支配機構の末端の役割を果たしたのでした。

 またこの台帳は、庶民から職業の選択や、転居・結婚などの自由を奪いました。

 そして、権力者にとって権力を維持するための身分制度の徹底といった政策を実施するには有効な手段でした。

 つまり、江戸時代の寺院は権力者の側に立ち、権力を維持する道具として利用され、差別を温存する役割を担ってきたのでした。それが檀家制度なのです。

 この制度は明治の廃藩置県と共に廃止されましたが、寺と檀家の寺檀関係は残り、宗教が「家の宗教」という認識で現在も続いております。

 余談ですが、明治政府は檀家制度を廃止した代わりに、氏子制度という神社との関係を強制しました。また、それまで決して家の中にはなかった神棚を祀ることも強制し、国家神道・戦争の道を突き進んで行ったのです。

 浄土真宗は「家の宗教」から出発する教えでなく、個の救いが家の宗教となり社会一般に広まることを願っておりますので、檀家という家を単位とする言葉を極力用いませんでした。

 そして、浄土真宗の教えを信仰する者すべてが、寺でなく宗門の大事な個であるという意味で「門徒」と呼んできたのです。門徒の門は宗門・一門の門という意味です。

 どの言葉もそうですが、特に檀家という言葉の裏には重く悲しい歴史があります。

 私は江戸幕府の封建制と、差別である身分制度を象徴する言葉が「檀家」であると考えております。

 何も知らずに檀家という言葉を使っておられたなら、これからは使わないようにしましょう。特に浄土真宗の方でしたら、「門徒」という立派な言葉があるのですからなおさらです。

仏事の迷信Q&A(No.24)

Q.仏教には大乗仏教と小乗仏教がありますが、どう違うのでしょうか。

 お答えいたします。

仏教の大きな流れを分けた言葉が大乗と小乗という言葉で、大乗とは大きな乗り物のこと。小乗とは小さな乗り物のことです。

 この表現は中国や日本において大乗仏教が成立してから、それまでの部派仏教(東南アジア一帯の仏教)を、自己の救いのみを目ざすものとして軽んじて呼んだ呼称で、部派仏教側にすれば小乗と呼ばれるのは屈辱だと思いますので、使わない方が良いと思います。

 大乗仏教の特色は空(くう)思想と六波羅蜜(ろくはらみつ)などの実践の徳目、そしてその実践者である菩薩(ぼさつ)の出現だろうと思います。

 空思想とは八宗の祖と仰がれる龍樹菩薩が明らかにした思想で、部派仏教に見られる有の思想を否定する考えです。

 有の思想とは万物には霊魂のような不変の実体が有るとする考えです。

 龍樹菩薩は諸行無常・諸法無我を説く仏教には有の思想は邪見であると排し、空思想をうち立てられました。

 しかし、無いという空思想も、無いということに執着すれば間違いで、万物は縁(条件)によって変化しているのだから、空の中の縁起の法を知る者こそ、自他にとらわれない自由な境地に至ると中観を示されました。

 大乗仏教の次の特色である六波羅蜜とは、布施(施し)・持戒(じかい・戒律を守る)・忍辱(にんにく・完全な忍耐)・精進(しょうじん・徹底した努力)・禅定(ぜんじょう・完全な心の統一)、そしてこれら五つの根元となる智慧の六つを言います。

 この六つの修行徳目を実践する者が菩薩であり、自己の悟りだけでなく、あらゆる者の救いをめざす自利利他(じりりた)の行者のことです。

 大体ご理解いただけたでしょうか。大乗・小乗と分けたのは、部派仏教(小乗)の説く有の思想や自己の悟りのみを完成させる考えが仏教として間違いであり、お釈迦様が説かれた教えは、自他に執着しない空という心と、完全なる実践徳目によって、自他共に救われていくのが菩薩道・仏道であるというのが中国や日本の仏教である大乗の立場です。

 ところが理解できてもここに大きな問題が存在します。

 それはこの私が空を悟り、徳目を実践して菩薩や仏となれるかどうかです。

 欲と怒りと愚痴の日暮しかできない者にとって、いかに大きな乗り物である大乗といえども、実践できなければ絵に描いた餅でしかないのです。

 お釈迦様はそのような者に向かって阿弥陀如来という仏様を出現させました。

 空も六波羅蜜も、すべて完成されている阿弥陀如来という仏様に、私という存在をあずけるところに、大乗の中の大乗である他力の救いが完成されるのです。

 あずけるということは、自己を虚しくすることです。なかなか出来ることではありませんが、阿弥陀如来の心を聞き開いたならば、おのずと生まれてくる心なのです。

仏事の迷信Q&A(No.25)

Q.お経は亡くなった人のために読むものではないと聞いたのですが…。

 お答えいたします。 まず、お経とは何かをご説明いたします。

 簡単に申しますとお経はお釈迦さまのお説法のことです。

 そのお説法はお釈迦さまの滅後数百年間は、もっぱら記憶暗唱を頼りとして受け継がれておりました。

 しかし記憶と暗唱だけでは教えが散逸してしまう恐れがあったため、多くの仏弟子達が「結集(けつじゅう)」と呼ばれる集まりを数回持ち、互いの記憶を確認しながら、合議の上で編集・編纂したのがお経です。

 第1回目の「結集」は王舎城(おうしゃじょう)郊外に五百人の比丘たちが集まりました。このときは仏弟子マハーカッサパが座長となり、アーナンダとウパーリがそれぞれ経(教法)と律(戒律)の編集主任を担当しました。

 その後のインドにおける主な「結集」としましては、仏滅後百年頃、戒律上の異議が生じたことを契機に、毘舎離(ビシャリ)で七百人の比丘を集めて開かれたとされる第2回結集、仏滅後2百年頃にアショーカ王の治下、華氏城(ケシジョウ)で千人の比丘を集めて行われたという第3回結集、紀元後二世紀頃、カニシカ王のもとで、カシミールの比丘五百人を集めて開かれたという第4回結集などが知られております。

 このようにお経は、多くの仏弟子達の手によってお釈迦さまのお説法を纏めたものです。当初のお経は古いインドの言葉、サンスクリット語で書かれておりましたが、それらは「西遊記」で有名な三蔵法師らの力によって中国語に訳され日本に入ってきました。

 現在は現代日本語に翻訳されたお経(本願寺出版社の浄土三部経など)や英訳されたお経も数多くありますが、原点に帰ってお経とは何かを考えてみますと、それはお釈迦さまのお説法であるということです。

 では、そのお釈迦さまのお説法は誰に対してなされたかと申しますと、生きた人間に対して説かれたのでした。

 亡くなった人に向かってお釈迦さまがお説法をされたことなど一度もありません。

 今回のご質問は正解なのです。お経は亡くなった者に読んであげる性質のものではありません。亡くなった方をご縁として、この私がお釈迦さまのお説法を今聞かせていただいている、あるいは、お釈迦さまが讃歎された阿弥陀さまのお徳を私もお釈迦さまと一緒に讃えさせていただくのが読経ということです。

 亡くなった人に読んであげるといった考え方は、亡くなった者を「迷いの存在」「たたりを起こす存在」「かわいそうな存在」として受け止めているのです。この考え方は本当の仏教ではありません。

 本当の仏教は「死者の死を無駄にするな」と教えております。無駄にしないとは、親しい者の死を縁として自らの命を仏教に問うことです。

 そしてそのご縁を尊いご縁であったと慶ぶことが出来たとき、死者の死が光り輝く仏さまのハタラキと受け止めることが出来るのです。

 まずは仏法聴聞から始まります。

仏事の迷信Q&A(No.26)

Q.友引の日に葬儀を出してはいけないと聞いたのですが…。

 お答えいたします。

 日の善し悪しを言う迷信「六曜」の中に友引があります。

 六曜とは中国の軍師、諸葛孔明(しょかつこうめい)が考え出した「戦(いくさ)暦(こよみ)」のことで、先勝・友引・先負・仏滅・大安・赤口などがあります。

 戦をするにあたって先勝の日であれば、「先んずれば人を制すということにて、諸事急ぐことによし」、 友引の日は、「相打ち共引とて、勝負なしと知るべし」。

 先負の日は、「先んずれば負けるという意にて、諸事静かなるによし」。

 仏滅の日は、「何事にも凶、諸事慎むべし」。

 大安の日は、「何事にも吉、万事利ある日なり」。

 赤口の日は、「中間を吉、前後を凶とす。この日、吉日にあらざれば用いざるがよし」。
などと定めたものです。

 では、どうやって六曜を当てはめたかというと、旧暦の正月と7月の1日は「先勝」から始まり、2日からは順に友引・先負・仏滅…と当てはめていきます。

 2月と8月は「友引」から始まり、これも先負・仏滅・大安…と当てはめます。

 このように、3月と9月は「先負」から、4月と10月は「仏滅」から、5月と11月は「大安」から、6月と12月は「赤口」から順に当てはめて行きます。

 この六曜は諸葛孔明が戦にあたって勝手に考え出したもので、何の根拠もありません。

 今から戦争に行く人ならいざ知らず、日常生活の上でこんな迷信に縛られて、生活や行動を規制している人がいるならば、それはもう「哀れ」としか表現できません。

 結婚式は大安と決めただけで、1年の6分の1しか式の日取りを選べないのです。

 病院の退院は友引の日と決めている病院があるようですが、こんな迷信を信じている医者には私の身体は任せたくありませんし、病院の入院費搾取大作戦としか思えません。

 ご質問の「友引の日に葬儀を出してはいけない」と言った人も、なぜそう言われるようになったかという根拠を知っていただきたいと思います。 人が言うからとか、昔からそうなっているといった理由では、せっかくの人生を主体性のないまま送ることになってしまいます。

 「友引の日に葬儀を出してはいけない」という理由は、「友引」という字を見て、亡くなった人が友を引っ張って連れて行くという解釈から来たことなのでしょう。

 元々は共引(引き分け)の意味が、分けるどころか引っ張るという逆の意味になってしまっております。誰かが面白半分で考えたことなのでしょうが、こんな迷信を気にする必要は一切ありません。

 それに、そもそも何で私たちが諸葛孔明なる人物が勝手に作った暦に惑わされなくてはならないのでしょう。

 人が亡くなるのは友引の日に葬儀を出したからではありません。亡くなるべき条件(縁)が揃えば亡くなって行くのです。

 もし、こんな迷信で火葬場を休みにしている自治体があるとすれば大問題です。

仏事の迷信Q&A(No.27)

Q.「門徒物忌み知らず」とは、どういう意味でしょうか。

 お答えいたします。

 「門徒」とは、浄土真宗の信者のことです。

 「物忌み」とは、平安時代に陰陽道の「物忌み」が日本に入って来てから盛んになった考え方で、厄難消除を主体とし、外の霊鬼から身を守るための精進潔斎行のことです。

 現代も通夜や葬儀などの仏事に、いわゆる「忌み事」として、「しなくてはならないこと」などの精進潔斎行があるようですが、多くは死や死者をケガレと見る考え方から来ております。

 浄土真宗は、亡くなられた方を仏さまと仰ぎ、その死をケガレとせず尊いご縁と考えておりますので、一般に行われている「忌み事」を勇気を持って無視してきたのです。

 そのため浄土真宗以外の方々から「門徒物忌み知らず」と呼ばれてきたのでした。

 実際、現在でも行われている「忌み事」は死者を冒涜した内容です。葬儀での例を挙げてご説明いたしましょう。

 葬儀の後、出棺の前に棺の蓋に石で釘を打つ「釘打ちの儀式」が行われている地方があります。

 これは「石には霊を封じ込める力がある」という迷信から来ており、死のケガレを石の力によって棺の中に封じ込めてしまおうとするものです。

 また、故人が生前に使っていたお茶碗を音をたてて割ることも「忌み事」としてあるようです。

 これは、故人に対して「あなたが帰ってきても、ご飯を食べるお茶碗はありません。」と伝えていることだそうです。

 また、棺を車に乗せる前にグルグルと三回ぐらい回してから乗せる地方もあります。

 これは、棺を回すことによって死者の目を回し、今まで住んでいた家を忘れさせるためだそうです。

 また、お骨を拾う時、二人で一つのお骨を拾わねばならないとする「忌み事」もあります。
 これは、死のケガレを分散させるためだそうです。

 また、火葬場への道を、行きと帰りでは変えるということもよく聞きます。

 これは、「同じ道を帰ると亡くなった者がついてくる」と言って、家までの道を覚えさせないために行われているのです。

 また、葬儀や火葬場から帰ると、家の中に入る前に塩を身体にかけている人がおりますが、これは神道の「五穢(五つのケガレ)」の思想から来ているもので、塩にはケガレを落とす力があると神道では信じられており、葬儀や火葬場に行くと死のケガレがつくので塩を使ってケガレを落としてから入るということだそうです。

 神道の方は塩を使って良いと思いますが、我々仏教徒には必要のないことです。

 以上のようなものが「忌み事」と呼ばれているものですが、浄土真宗の人たち、ご門徒さんたちは、自分たちの教えと大きく異なるものであり、これらが死者を冒涜するものであるとよく知っていたから行ってこなかったのです。

 我々浄土真宗門徒は、この「門徒物忌み知らず」という言葉を、浄土真宗の誇りであると受け止めてまいりました。

仏事の迷信Q&A(No.28)

Q.お墓やお仏壇には向きとか安置場所があると聞いたのですが…。

 お答えいたします。

 結論から申しますと、お墓やお仏壇の向きや安置場所は気にされなくても結構です。

 最近、このようなご質問をよくお受けいたしますが、たぶん陰陽道(風水)などの方角占いを気にされてのことだと思います。

 まずお仏壇の安置場所からご説明いたしますと、二つの条件が大切であると私は考えます。

 一つ目は粗末にならない場所です。

 向きや場所は気にしなくても良いと申しましたが、トイレの中や廊下では御本尊阿弥陀さまに対して失礼になってしまいます。敬いの心があればそんな場所は避けるのが当然のことと思います。

 私の小さな頃は、ほとんどの家庭には仏間と呼ばれる部屋があり、大きな金仏壇が安置されておりましたが、最近の住宅事情では特別な部屋を設けることも、大きなお仏壇を置くことも困難であると思いますのでそこまでしなくてもいいですが、それでもやはり粗末にならない場所ということだけは心がけたいものです。

 特にお仏壇の上に物を置いたり、上置き型のお仏壇を直接床の上に置いたりしないようにしましょう。

 仏間で思い出しましたが、実家のお寺は忙しいお寺でしたので、中学の頃から日曜日には月参りのお手伝いをしておりました。

 ある日の月参りで「おはようございます」と言ってその家の仏間に入りますと、仏間に布団を敷いて同級生の女の子が寝ておりました。

 私の顔を見るなりその子は布団の中にもぐり込んでしまいましたが、帰るわけにも行かずそのままお経を読んで失礼しましたが、何とも居心地の悪いひと時でした。

 さて、二つ目の気を付けたいことは、みんなでお参りできる場所に安置することです。

 いくら粗末にならない場所でも、そこがお祖父ちゃんの部屋やお祖母ちゃんの部屋といったプライベートな場所であれば、みんなでお参りすることが出来ません。

 最近の傾向としましては、リビングというみんなが集まる場所にお仏壇を安置しているお宅が結構ありますが、私としましては良いことだと思います。

 次に、お墓やお仏壇の向きですが、上と下を向いていない限りどちら向きでも結構です。よく東向きでなければという方もおられますが、それはお仏壇やお墓が東向きということは、お参りする方は西向きでお参りするということです。

 西方の浄土に向かってということなのでしょうが、一切気にする必要はありません。

 お釈迦さまは浄土をわかりやすく太陽の沈む方向、西方と示されましたが、本当はどちらを向いてもお浄土向きなのです。

 仏法をよくご聴聞されている方にはまったく気にならない問題ですが、いつでも・どこでも私にハタラキかけて下さる阿弥陀さまに方角など関係ありません。

仏事の迷信Q&A(No.29)

Q.お浄土や地獄・極楽などは本当にあるのでしょうか…。

 お答えいたします。

 地獄や極楽は、あると言えばありますし、ないと言えばないのです。

 ご理解いただけましたでしょうか…。

 ご理解いただけないようですので、もう少し詳しくご説明いたしましょう。

 地獄や極楽を場所と考えると、そんな場所は地球はおろか宇宙のどこにもないでしょう。

 しかし、地獄や極楽を境界(状態)と考えればあると言えます。

 例えば、温泉に入って気持ちが良いとき、思わず「極楽・極楽」とつぶやいている老人を以前はよく見かけました。

 最近は「極楽」が死語になったためか「天国・天国」とつぶやいている人を見かけます。

 失礼…。見かけません。

 風呂場で「極楽・極楽」とつぶやく老人にとって、現実に居る場所は温泉なのですが、境界としてはまさに極楽にいる気分なのです。

 「地獄」も同じ事です。傍目には立派な極楽のような御殿に住んでいても、家族の仲が悪く、いつも争いが絶えないような家であれば、そこは「地獄」となるのです。

 このように地獄・極楽は場所としてはどこにも存在いたしませんが、境界としてはどこにでもある世界です。

 では、私たち浄土真宗が大切にしている「お浄土」はどういう境界の世界なのでしょうか。

 お釈迦様は光明無量、寿命無量の境界としてお浄土を説かれましたが、光明無量とは無限の空間を言い、寿命無量とは無限の時間を言います。 親鸞聖人は「土はまたこれ無量光明土なり」と阿弥陀仏の浄土を表現されました。

 仏教では光明を智慧と表現しますが、阿弥陀仏の量りなき智慧の世界がお浄土と聖人は受け取られたのでした。

 量りなき智慧とは、真実を伝えるハタラキのことです。人間に対して言えば、人間のあらゆるものに対する見識が間違いであることを知らせ、真実とは何かを理解せしめるハタラキのことです。

 人間の苦はどこから生じるのでしょうか。

 人間の根本的な苦は、老病死の苦、愛する者との別離の苦、憎い者との出会いの苦、求めるものが得られない苦などです。

 これらの苦は人間の勝手な見識により作り出された苦だと量りなき智慧を受けてお釈迦様は説かれます。

 例えば「愛別離苦」という愛する者との別離の苦を考えてみましょう。

 人間の見識としては、死別によって姿を見ることが出来ない、言葉を交わすことが出来ないことを苦としますが、真実の智慧は、死別した者はたとえ姿は見えなくともハタラキとして存在しているのだ、なぜそのハタラキを見ようとしないのだ、と私たちに教えます。

 存在は姿や言葉によってあるのでなく、ハタラキとして存在するのが真実なのです。少し難しくなりましたが、ご理解いただけますでしょうか。

 お浄土を「倶会一処(共にまた会う世界)」としてお釈迦様は示されましたが、それは見える見えない、聞く聞けないといった物質的な出会いの場でなく、ハタラキとして故人を受け止めることが出来たとき出現する、疑いのない境界なのです。

仏事の迷信Q&A(No.30)

Q 浄土真宗ではなぜ塔婆を用いないのですか?

 お答えいたします。

 塔婆は古いインドの言葉「ストゥーバ」を漢字で表記した「卒塔婆」を簡略化したもので、もっと簡略化したものは「塔」です。

 本来、ストゥーバとはお釈迦さまの遺骨(仏舎利)を納めた建物のことですが、奈良法隆寺の五重塔や薬師寺の三重塔など、日本のお寺にある塔はインドの仏舎利塔、ストゥーバをまねたものです。

 ご質問者の「塔婆」はお墓に立てる木の板のことだと思いますが、あれも先がギザギザになっているところから、五重塔や三重塔、あるいは多宝塔と同じくインドのストゥーバをまねたものであることが分かります。

 他宗派では法事の際に親戚の者同士が、なかば義務的に塔婆のやり取りをしているようですが、浄土真宗では塔婆を用いません。

 なぜ用いないかと言いますと、塔婆を立てるということは「造塔供養」という追善廻向の迷信だからです。

 追善廻向とは「亡くなった者は自分で善根を積むことが出来ないので、生きている者が亡くなった者のために善を積み、亡くなった者へその善を振り向ける」ことです。

 その善の一つが「造塔供養」という塔を建ててあげるということです。

 いつの頃からかこの「造塔供養」が盛んに奨励されるようになり、各地に塔が建立されるようになりましたが、一般庶民は立派な塔を建てるお金がありませんでしたので、木の板を塔に見立てて墓地などに立てるようになったのでした。

 浄土真宗が塔婆を用いない理由は、浄土真宗の教えの中に追善廻向という生きている者の思い上がった考え方が無いからです。

 親鸞聖人は『歎異抄』第五条で「親鸞は父母の孝養(追善廻向)のためとて、一返にても念仏申したること、いまだ候はず」と言われています。

 塔を建てたり、お経を読んであげたりといった追善廻向もさることながら「南無阿弥陀仏」と私が称えるお念仏さえも亡くなった者のためではないと親鸞聖人は言い切られているのです。

 亡くなった者のためにと行う追善廻向・追善供養は生きている者の思い上がりです。

 お盆の季節ですので「仏説盂蘭盆経」というお経の話を少しいたしますと、お釈迦さまは目連尊者に、餓鬼道に落ちている母親にではなく、集まった衆僧(生きている多くの僧侶)に供養しなさいと言いました。(経には具体的に「飯(ご飯)・百味(多くのおかず)・五果(くだもの)・汲灌盆器(水入れ)・香油・錠燭(燭台)・床敷(敷物)・臥具(寝具)」などを与えよとあります。)

 そして、母親を自分の力で救えると思うことが思い上がりであることを教えました。

 お盆の行事に限らず、一般的には亡くなった者のためにと法事や法要を勤めますがそれらは間違いなのです。

 亡くなられたお方に導かれて自分自身の思い上がりの心に気付き、阿弥陀如来の大いなるハタラキの中に先立った者も残された者も共に生かされてある永遠の命に目覚めさせていただく、それが浄土真宗のご法事なのです。

 浄土真宗は追善廻向の宗教ではありません。だから塔婆を用いないのです。

仏事の迷信Q&A(No.31)

Q.遺骨を分骨すると故人が迷うと言われましたが…。

 お答えいたします。

 遺骨を分骨しても亡くなった者が迷うことなどありません。

 お釈迦さまの遺骨は八つに分骨されて仏舎利塔に納められましたし、浄土真宗では伝統的に親鸞聖人の廟所である大谷本廟に故人の遺骨を分骨して納骨する習慣があります。

 むしろ分骨するのが浄土真宗の門徒としての心得のようにして受け継がれてまいりました。

 それは、親鸞聖人の遺骨が埋葬されている大谷本廟に親しい者の遺骨を分骨して埋葬することは、永代にわたって浄土真宗の教えを聞くご縁が結ばれるという理由からです。

 私たちのご先祖は、後々の子孫のことまでを考えて「門徒は大谷本廟に分骨する」という伝統を築き上げてくれたのです。

 「分骨すれば故人が迷う」と考えておられる方は、きっと浄土真宗以外の方で、遺骨には故人の魂か何かが残っていると考えているのでしょう。

 故人は仏さまと成られましたので、いつまでも遺骨などの身体の一部という限られた領域にはおられません。もっと広々とした自由な空間で私たちを導いて下さっておられるのです。

 浄土真宗では分骨して大谷本廟に納骨することを進めております。

 故郷のお墓に分骨されても結構です。

 大切なのは分骨を通して教えに遇うことなのです。

仏事の迷信Q&A(No.32)

Q.遺骨は49日に納骨しなさいと言われましたが…。

 お答えいたします。

 納骨の時期は特に決まっておりません。

 そもそも、土葬であった昔は葬儀の日が埋葬の日でした。

 火葬するようになってからこのような四十九日云々ということが言われるようになったのです。

 それは人間の情としては、やはり故人の遺骨をしばらくでも手元に置いておきたい、葬儀後すぐではまだ納骨する気になれないという感情が起こりますので、四十九日ぐらいまでは家に安置し、納骨もそのぐらいの時期にということが定着したのだと思います。

 私としましてはいつ納骨しても良いと思いますが、あまり長く自宅などに安置しておりますと、遺骨に対して執着が出てまいりますので、長くても一・二年ぐらいが自宅に安置する限度ではないかと考えております。

 もし墓地がなくて仕方なく自宅に安置している場合は、お寺さんに相談してお寺に預かってもらうのが一番良いと思います。

 お寺に預けますと故人の遺骨がご縁となって教えを聞くことができます。「牛に引かれて善光寺」という言葉がありますが、「遺骨に呼ばれて寺参り」という、日ごろ教えを聴聞することがなかなか出来ない私たちに、聴聞を促してくれるご縁となって下さいます。

 とにかく、納骨の時期は特に決まってはおりませんが、大谷本廟などへの分骨と同じように、納骨をご縁として私自身が教えを聞くことが、故人の死を無駄にしないということにつながるのです。

仏事の迷信Q&A(No.33)

Q.宗派によってお焼香やお線香の作法が違うと聞きましたが…。

 お答えいたします。

 ご指摘の通りお焼香やお線香の作法は各宗派によって違いますし、お香に対する意味づけも違うようです。

 来恩寺の所属する浄土真宗本願寺派の場合は、お焼香は一度のみです。作法は香炉の二、三歩手前で軽く一礼し、香炉の前に進み、親指と人差し指・中指でお香を一つかみし、押しいただかずに炭の上にそのまま乗せます。 その後、胸の前で合掌(お念珠の房が下に来るようして、お念珠を親指と人差し指の間に掛ける)し、称名(お念仏を称える)の後、礼拝(静かに上体を深く前に倒す)します。その後、二、三歩後退、軽く一礼して自席にもどります。

 次に、お線香は香炉の大きさに合わせて折り、灰の上に横に寝かせて使用いたします。

 お線香を寝かせて使用する理由は、お線香は燃香の代替品として江戸時代に考案されたものであり、燃香は立てて使用するようなものではないからです。

 宗派によっては、お線香を立てたり本数も決まっているところもあるようですが、私たち浄土真宗本願寺派ではお線香の本数を決めてはおりません。お線香が二本だと故人が迷うという人もおられますが、お線香の数によって故人が成仏したり迷ったりするはずがありません。

 仏前に香を焚くのは、仏様(阿弥陀様)のお徳を芳しい香(経にはお浄土は清らかな香の香りがすると説かれている)の中に偲ばせていただくためです。

 それ以外の意味づけは必要ありません。

仏事の迷信Q&A(No.34)


Q.浄土真宗のお墓の石碑正面は何と刻めばよいのでしょうか。


 現在、来恩寺の墓地造成(4月中旬開園)が進んでおりますので非常にタイムリーな質問だと思います。さっそくお答えいたします。

 納骨法要などでよく市営の墓園(茅ヶ崎市には無い)や他宗派の墓地にまいりますが、ほとんどの墓石には「○○家之墓」とか「△△家先祖代々の墓」などと刻まれたものを見かけます。

 いつも思うのですが、墓だということは見れば一目で分かるのに、何で「墓」という文字を刻むのだろうと不思議に思います。

 なぜなら、家の表札に「橋本正信の家」などと書かれた表札を見たことがありませんし、植物園などで木や花の名札に「ソメイヨシノの木」「コチョウランの花」などと書かれた名札を見たことがないからです。

 表札には「橋本正信」だけで橋本正信の家だということが分かりますし、植物の名札には「ソメイヨシノ」「コチョウラン」だけでその種類が分かるのです。

 また、墓の持ち主を明確にするために「○○家」などと刻むのであるのなら、何も正面に大きく書かなくても側面か裏面にでも書いておけば奥ゆかしくて良いのにと思ってしまいます。

 多分、長い慣習の中で誰も不思議に思わなくなり、そのように刻むことが普通だと思ってしまったのだと思いますが、浄土真宗のお墓の石碑正面は昔から「南無阿弥陀仏」のお名号を刻むのが普通です。

 市営の墓園などで「南無阿弥陀仏」と刻まれてある墓石を発見したら、「浄土真宗のご門徒さんのお墓だ」とうれしくなってしまいますが、なぜお名号を刻むのかをご説明いたします。

 私たち浄土真宗の礼拝(手を合わし感謝の気持ちを表す)の対象はご本尊である阿弥陀如来さまだからです。

 お墓もご家庭のお仏壇と同じことで、手を合わし礼拝をする場所ですのでお名号を刻むのです。

 想像していただければよく分かると思いますが、ご家庭のお仏壇の正面に「○○家の仏壇」と書いてある掛け軸を掛けている家があるでしょうか。私は見たことがありません。

 浄土真宗だけでなくどの宗派のお仏壇でも「○○家の仏壇」と書かれたご本尊を安置しているところはないと思います。

 ではなぜお仏壇と同じ礼拝の場所であるお墓だけ「○○家の墓」と刻むのでしょうか。こちらのほうが私は不思議に思います。

 「○○家の墓」と刻まないもう一つの理由は、浄土真宗は家にこだわらない宗派だからです。

 「○○家」と刻んでしまいますと「姓の違う者の遺骨はお墓に入れてはならない」などという偏見や誤解が生じます。私たちはみんなアミダというはかり知れないハタラキの世界に生まれて行くのですから生前の姓にこだわる必要がないのです。

 このような理由から新しく開園する来恩寺の墓園は「○○家の墓」と正面に刻むことはお断りしております。

 墓地は宗教活動の一つとして宗教法人に認められている施設です。墓地における宗教活動とは、墓地を縁として浄土真宗の教えを広めることと私は理解しております。

 今回のご質問のように墓地に刻む文字について考えることも浄土真宗の教えを理解していただく尊いご縁です。

ご一考を。

仏事の迷信Q&A(No.35)


Q.「お彼岸」とはどういう行事なのですか。


 お答えいたします。

 「彼岸」という言葉はサンスクリット語の「パーラミター」を訳した「到彼岸」を簡略化したもので、意訳せずに音写したものが「波羅密多」です。

 「到彼岸」とは此岸(この岸・迷いの世界)から彼岸(かの岸・悟りの世界)へ到ることで、わたしたち浄土真宗などの浄土教の教えでは、悟りの世界である阿弥陀如来の浄土に生まれることを言います。

 その悟りの世界へ生まれる方法を原語を音写した「波羅密多」から少し考えてみたいとおもいます。

 インドの龍樹菩薩の作られた「大智度論」には「般若波羅密は諸仏の母なり」と説かれています。「般若」とは智慧のことで、智慧に導かれて彼岸に到ることが般若波羅密多です。 「摩訶般若波羅密多心経」というお経がありますが、これは摩訶は「大」ですから「大きな智慧で彼岸に到る中心のお経」という意味のお経です。

 すべての仏さまは智慧によって彼岸という悟りの世界に入られたので、龍樹菩薩は「般若波羅密は諸仏の母なり」といわれるのです。

 その方法が説かれているのが大智度論(大きな智慧によって悟りの世界に度る論説)です。

 それには、布施(執着なき施しをすること)・無畏施(恐怖を取り除き、安心を与えること)・持戒(戒律を守ること。自己を常に反省すること)・忍辱(にんにく・堪え忍ぶこと)・精進(他の五徳目を乱さず実践し続けること)・禅定(ぜんじょう・心を安定させること)・智慧(真実な智慧を開きあらわすこと。命そのものを把握すること)の六つの方法があるので「六波羅密」とも、「六度」(六つのわたり方)ともいわれます。

 仏教の目的は「転迷開悟」で迷いを悟りに変えることです。

 迷いは沢山ありますが、その根本は「貪欲(とんよく・むさぼりの心)」「瞋恚(しんに・怒りの心)」「愚痴(ぐち・おろかさ)」の三つで「三毒の煩悩」、つまり三つの恐ろしい迷いとされます。

 この迷いを退治して、悟りに変える力が六波羅密の修行です。

 「貪欲」は、いくらあってもまだ欲しいというむさぼりの心ですから、これを治すのに「布施」という施しの修行と、「持戒」というきまりを守る修行があります。

 「瞋恚」は、怒り腹立ちの心ですから、「忍辱」という堪え忍ぶ修行と「精進」というたゆまざる努力の修行によって治します。

 「愚痴」は、救いようのない愚かでゆれ動く心ですから、真の「智慧」によって物事の本質を明らかにし、「禅定」という心を落ち着かせる修行によって迷いを悟りに変えるのです。

 これが六波羅密の修行であり、それが完成すれば「転迷開悟」して「成仏」即ち仏さまとなれるのです。

 このように「彼岸」とは「到彼岸の道」つまり仏道修行のことで、春秋の彼岸会は、仏道修行を奨励する法要なのです。

 しかし、私たち浄土真宗は修行をして自分で悟りを開く教えでなく、すでに阿弥陀如来の救いの中にある自分に気づき、その中にありながら煩悩だらけの生活を送っていることを懺悔し、煩悩だらけの生活を送っている者を目当てに阿弥陀如来の救いがあることを慶ばせていただく教えです。

 ですから浄土真宗の彼岸の行事はそのような大いなる阿弥陀如来の救いをお聞かせいただく集いであり法要であります。

 亡くなられた者のためにとお墓にお参りする期間ではなく、亡くなられた方をご縁としてこの私が教えを聞かせていただくのが最も大切なことです。

 お彼岸の本来の意味を知り、間違わないようにしたいものです。

仏事の迷信Q&A(No.36)

Q.「永代経」とはどういうお経なのですか。

 お答えいたします。

 「永代経」とは「阿弥陀経」や「般若心経」などのような、お釈迦様の御説法を文字にした「経」ではありません。

 永代経は永代経法要のことで、宗派や寺院によって考え方は様々ですが、浄土真宗の永代経法要は永代に亘って経(浄土三部経・阿弥陀様の救い)が伝わることを願って執り行われる法要のことです。

 浄土三部経もよく勘違いされるのですが、そのような名前の経はありません。仏説無量寿経と仏説観無量寿経、そして仏説阿弥陀経を総称して浄土三部経といいます。

 この浄土三部経は阿弥陀如来の救いを明らかにした経典で、親鸞聖人は、煩悩を持ち、戒律も守れず、どのような修行も満足に出来ない者を目当てにお釈迦様が説かれた教えであると大切にされ、この浄土三部経の教えを基に成立しているのが浄土真宗です。

 さて、ご質問の永代経でよく問題になるのは「故人のために永代に亘って経を読むこと」と勘違いしている人が多くいることです。

 確かに故人をご縁として通常のご法事のように経は読みますが、ご法事と同じく、その経は故人のためではなく生きている私が、あるいは私たちの子や孫・曾孫などの子孫、もっと言えば血縁に関係なく現在と将来の浄土真宗にご縁のあるすべての者が阿弥陀如来の救いに出会うことを願って読まれるものです。

 そして経を読んだ後、浄土真宗では必ずといって良いほどご法話がありますが、経の教えである阿弥陀如来の救いをご法話として永代に亘って伝えること、そして聞くことを主な目的としているのが浄土真宗の永代経法要なのです。

 特に故人の年回法要は四年から六年に一度ぐらいしか営まれませんが、お寺での永代経法要は毎年行われます。地方へ参りますと春と秋の二回行われるところもありますが、これも数多く教えを聞いてほしいとの願いから行われているものです。

 また、永代経法要では永代経懇志を収めますが、この懇志は寺院が永代に亘って護持されますようにとの願いから納められているものです。

 一般的にはお金を懇志として納めておりますが、古くは仏具を揃えたり、お寺の営繕、教化伝道の教材を購入するために永代経懇志が納められておりました。

 このように永代経法要には願いがあります。

 それは永代に亘って教えを聞いてもらいたいということと、そのためには聴聞の場であるお寺を永代に亘って守って行きましょうという願いです。

 来恩寺では永代経懇志を納められた皆さまのご家族(故人)の法名等を永代経帳に記入しておりますが、これは仏さまとなられた故人の願いが、縁ある者たちが永代に亘って教えを聞き、阿弥陀如来の救いに出会うことであると解釈しているからです。

 間違っても故人のために永代経法要があり、故人の追善供養のために永代経懇志を納めるとは考えないで下さい。聴聞のために永代経法要があり、聴聞の場を守り護持するために懇志は納められるのです。

 特に来恩寺では強制的な会費や寄付はいただいておりませんので、聴聞の場である来恩寺を守りたいという思いのある方は、ぜひ年に一度の永代経法要にご参拝いただき御懇志をお納めください。懇志の額はおいくらでも結構です。

 また、仏具等をご寄付いただける方はご一報ください。現在親鸞聖人と蓮如上人の脇壇に「菊灯」を一対ずつ置きたいと思っております。

 最後は寄付のお願いのようになってしまった今月の「仏事の迷信Q&A」ですが、永代経本来の意味をご理解ください。

仏事の迷信Q&A(No.37)

Q.「喪中」とは何のことでしょうか。

 お答えいたします。

 「喪中」という言葉をよく見かけますのは、年末の知人からのはがきです。文面は「喪中につき新年のご挨拶を控えさせていただきます」などです。

 この文面で想像できますのははがきを出された方のご家族が本年中に亡くなられたということ。「おめでとう」などと新年を迎える気持ちが起きないということでしょう。

 つまり「喪中」とは「まだまだ悲しみの中におり、慶事などのお付き合いをする気が起きません」という個人の意思表示なのです。

 それはそれでよく理解できるのですが「喪中」をケガレ意識で使用するなら問題があります。

 特に神道の影響で死をケガレと考え、ケガレが拡散しないように結婚式などの出席を控えたり、神社に参拝しない(仏教徒は本来参拝しないのが普通です)などと行動を控える期間が「喪中」であると考えるならばそれは本当の意味での「喪中」とはいえません。

 この死をケガレと考える思想は平安時代に確立されたようです。

 平安末期の「延喜式」には細かくケガレの期間が定められており、その拡散の仕方も述べられております。現代語で説明いたしますと、「Aの家で死者が出てBがその家に行くとBの家の者全員がケガレる。CがAの家に行ったBの家へ行くとCだけがケガレ、逆にBがCの家に行くとCの家の者全員がケガレる。しかしDがCの家に行ってもDはケガレない」などです。

 「なんのこっちゃ」と思うかも知れませんが結局はケガレを拡散させないために自粛しなさいという考えです。

 ケガレの期間も父や母・夫・妻・長男・長男以外の子ども・舅・姑・兄弟・姉妹・夫の両親・妻の両親・叔父・叔母などと細かく定めております。

 このケガレの考え方は時代によって少しずつ変化しておりますが、共通することは権力者によって定められているということです。

 最近の例ですと昭和天皇が亡くなった際、一斉に歌舞音曲が「自粛」という形で規制され、即位の礼も喪が明けた一年後に行われております。

 悲しみの期間である「喪中」は非常に個人的な期間でありますが、ケガレの思想とともに現在も規範のようなものが世間に流通し、世間の目を気にして行動を自粛しているのが現実のようです。

 話は少し変わりますが、喪服は江戸時代までは「白」でした。

 明治の欧化政策で西欧の風習が取り入れられたため黒い服となりました。

 私が築地本願寺に勤務していた時、歌舞伎の中村勘三郎さんが亡くなり、築地本願寺で葬儀を行いましたが、長男の勘九郎さんや家族の方々は伝統を守り白の着物を着ておりました。

 本来「喪中」「服喪」は個人の範疇で判断すべきです。世間の目を気にして判断すべきではないと思います。

 年賀の欠礼も、死者を出したものは神社に来てはならないという神道のケガレの思想から来ていることを知りましょう。

 年賀の欠礼のはがきの文面も「喪中」という形式としてある期間だからといった内容でなく、故人を中心にして考えるべきだと思います。

 たとえば、「父が浄土往生の素懐を遂げ、はじめて迎える正月は、父を偲び家族で静かに迎えたいと思いますので、新年のご挨拶を失礼させていただきます」などはどうでしょうか。

 計画していた旅行や結婚式などの出席も故人を中心にして考えるべきです。決して世間の目を気にして決めるべきではありません。

 ケガレという差別構造を見抜く目を持ちましょう。

仏事の迷信Q&A(No.38)

Q.他の骨より「のど仏」を大事にしなさいと言われました。
「のど仏」って何ですか?

 お答えいたします。

 普段、私たちが「のど仏」と呼んでおりますのは、男性の変声期に突出する軟骨(甲状軟骨)のことですが、ご質問はその軟骨ではなく、故人の遺骨の一部である通称「のど仏」と呼ばれる骨のことだと思います。

 変声期に突出する軟骨は火葬すると燃えてなくなるはずです。また、女性にはそのような軟骨がないはずですので、火葬したあとに残った「のど仏」なる骨は私たちが普段呼んでいる「のど仏」とは違います。

 では火葬しても残る故人の遺骨の一部である「のど仏」は何かと申しますと、首の付け根にある第二頚椎(軸椎とも言い、頭を乗せて首を回す役割をする)という骨のことです。

 その姿が座禅を組んで合掌しているお坊さんのような格好ですので、いつの頃からか「のど仏」と呼ばれるようになったようです。

 ご質問の「他の骨より『のど仏』を大事に」しなければならない理由を私は知りません。

 私は故人の遺骨はどれも故人を形成していた大切な遺骨だと思いますので、遺骨に大事にする遺骨と大事にしなくてもよい遺骨があるとは驚きです。

 そういえば火葬場での収骨のとき、「これが頭の骨です」「こちらが上半身で、そちらが下半身の骨です」「そしてこれがのど仏です。きれいに残ってますね」などと丁寧に説明してくれる火葬場の職員がおりますが、そこまで親切丁寧なら人体の骨格標本(理科室などにあったあれです)などを横に置いて説明してくれれば小学生や幼稚園児にも解りやすいのにと思っておりました。

 火葬場の職員は、ご質問者のような「他の骨より『のど仏』を大事に」する世間の風潮に合わせて、また、遺族から文句を言われないように、特にいわゆる「のど仏」を慎重に扱っているようです。

 そしてきれいに形が壊れずに焼け残っておりましたら、自慢げに「これが『のど仏』です」と説明しているようですが、この「のど仏」と他の骨にどのような価値の違いがあるのでしょうか。

 結局は「のど仏」と呼ばれていることから、故人の魂か何かがこの骨に宿っていると一般に考えるようになったのだと思います。

 分骨の際も、「のど仏」を特別扱いする方がおられますが、私は「どの骨も故人の遺骨だからどこでも一緒なんですよ」と説明しております。

 また、今回の質問にはありませんが、収骨の際、一つの遺骨を二人で箸を使って壷に入れますが、あれも普通では考えられない怪しげな光景です。

 なぜ二人で一つの遺骨を壷に入れるのか、その理由は行為責任の分散です。

 遺骨を拾うという非日常的な行為に恐れを抱き、タタリなどを分散するために行っている行動なのです。

 何の疑問もなく、火葬場の職員に促されるまま皆さん行っておりますが、こんな考え方は仏教にないことをご理解ください。

 最後に少し整理しておきますが、まず遺骨はどこの部分でも故人の大事な遺骨であり優劣を付けてはならないこと、そして「のど仏」などの遺骨に故人の霊や魂は宿っていないこと、そして骨を触ったからといってタタリなどは一切ないこと、したがって火葬場から帰ってきても塩で清めたりする必要がないことです。

 実際、火葬の後の遺骨はすっかり殺菌されていて、私たちの肉体よりずっと清潔です。

仏事の迷信Q&A(No.39)

Q.浄土真宗に「死」は無いと聞きましたが本当でしょうか。

 本当です。

 浄土真宗のご信心をいただいた者に「死」はありません。あるのは往生という「生」です。

 浄土真宗の篤信家で妙好人として知られる「浅原才市」さんの詩です。

『死ぬる身を
 死なぬ身の
 南無阿弥陀仏にしてもらい』

『わたしゃ
 しやわせ
 よいものもろて
 死ぬる
 気遣いなしの
 南無阿弥陀仏』

『死ぬること
 世話になったわたくしに
 死ぬること
 ぬいてもろたよ
 南無阿弥陀仏に
 これで才市が腰がのびたよ
 ごおんうれしや
 南無阿弥陀仏』

 才市さんに死はありません。あるのは、このいのちが終わればお浄土に往生するという「生」だけです。

 なぜ浄土真宗に死が無いのでしょうか。死を往生という言葉に置き換えているだけではないかと思われる方もおられるかもしれませんが、現実に信心をいただいた者には、死は意味を失いますし、臨終もとやかく思い煩う必要もないのです。

『臨終待つことなし
 今が臨終
 南無阿弥陀仏』

『臨終は
 死なんが臨終
 南無阿弥陀仏に
 なる臨終』

『虚空が才市
 才市が虚空
 ありがたや
 南無阿弥陀仏
 お浄土で
 お目にあたりましょう』

 浄土真宗は信心の宗教です。しかもその信心は我々人間が作り出した信心でもありませんし、思い込みのような安直な信心でもありません。

 我々人間の勝手な思い込みや考えが打ち破られて初めて出現する仏のハタラキ場、仏のお心がすなわち浄土真宗の信心なのです。

 生も死もない永遠のいのちを持つ仏の境地をいただけば、たとえこの身は滅んでも永遠のいのちに還って行く、あるいは永遠のいのちに生まれて行くわが身であることを自覚できます。

 永遠のいのちと自覚できた者には、人としての目を閉じた瞬間が仏になるその時なのです。

 『臨終待つことなし』とは、仏になる身と定まった者には臨終が必要ないということです。つまり、すでに仏のハタラキの中にいるということです。

 『虚空が才市 才市が虚空』とは、仏の本願の中に摂め取られているこの身を慶んだ表現です。

 お浄土は私を離れてあるのでなく、お浄土の真っただ中におりながら、お浄土のハタラキ、本願に気づかないのが私たちなのです。

 仏のお心である信心をいただくことは相当難しいことです。それは、私たちの勝手な思い込みが難しくしているのです。

 しかし、ご聴聞を重ねておれば必ずご信心はいただけます。才市さんも積年のご聴聞の末に阿弥陀如来のお心である信心をいただかれたのでした。

 浄土真宗に死はありません。名残惜しくこの世を去ることであっても、それは死ではなく往生という新たな生なのです。

 ご理解できない方はぜひご聴聞に励んでください。

仏事の迷信Q&A(No.40)

Q.今は忙しくてお寺へ行く時間がありません。
退職して暇が出来たらお寺へ行こうと思います。

 このような声をよく聞きますが、お寺は暇人ばかりが集まっている場所ではありませんし、また退職したお年寄りばかりが集まる場所でもありません。

 お寺へ行かない口実としてよく使われるのがこの言葉ですが、実際は自分の趣味や道楽にはどんなに忙しくても時間を割いている人が結構いるようです。

 また、お寺に来られている方の中には、公私ともに超多忙・多用な方もおられますが、何とか時間をやりくりして法話会などに参加されている方もおられます。

 お寺に来ない方々を責める気持ちは毛頭ございません。結局はお寺に来られない方々は教えを聞く「縁」が揃っていないという事なのでしょう。

 お寺に来られて教えを聞く縁の一つに「想像力」というものがあるのではないかと最近考えております。

 特に自分の生命はいつ亡くなってもおかしくない諸行無常という厳しい現実の中にあるという想像力です。

 蓮如上人は「御一代記聞書」の中で、

『仏法は世間のひまを闕(か)きてきくべし。世間の暇をあけて法をきくべきやうに思ふこと、あさましきことなり。仏法には明日といふことはあるまじき』

と仰っておられます。

 「世間のひまを闕きて」とは、世事に費やす時間をさいてということです。「世間の暇をあけて」とは、暇が出来たらということです。

 つまり『仏法は忙しい時間を何とかやりくりしてでも聞くべきである。暇が出来たら仏法を聞こうと思うことは間違いである。諸行無常という仏法の真実から考えて、明日も生きている保証はどこにもないのだから』ということです。

 また同じく「御一代記聞書」の中で、

『仏法者申され候ふ。わかきとき仏法はたしなめと候ふ。としよれば行歩もかなはず、ねぶたくもあるなり、ただわかきときたしなめと候ふ』

と示されておられます。

 これは『教えは元気なときから聞くべきである。年を取れば歩行も困難になるであろうし、教えを聞く集中力もなくなってくるであろう。だから元気な今教えを聞くべきである』ということです。

 親鸞聖人も蓮如上人も、そして妙好人といわれる方々は、みんな想像力豊かな人々であったのではないかと最近考えております。特に生命に対する想像力が人一倍豊かで、とにかく自分自身の「死」を解決する道を求めずにはおれなかったのではないかと思います。

 近代の妙好人と言ってもよい詩人「金子みすゞ」さんも想像力豊かな人でした。

 『大漁』という詩です。

 「朝焼小焼だ

  大漁だ

  大ばいわしの

  大漁だ。

  浜は祭りの

  やうだけど

  海のなかでは

  何万の

  いわしのとむらひ

  するだろう」

 誰が大漁で沸いている浜にいて、漁師に獲られたいわしの海の中の弔い(葬儀)を想像できるでしょうか。みすゞさんただ一人です。

 我々もみすゞさんまではいかなくても、せめて自分の生命に対する想像力は持ちたいものです。
想像力は「仏縁」です。うながされて出てくるものです。

仏事の迷信Q&A(No.41)

Q.他力本願の本来の意味を教えてください。

 先般、大手カメラメーカーが「元気で若々しく、活気のある社会に変わることを表現する(広告制作会社コメント)」ために「三日坊主から抜けだそう。大樹の陰から抜けだそう。井の中から抜けだそう。無芸大食から抜けだそう。その場しのぎから抜けだそう。二番煎じから抜けだそう。箸にも棒にもから抜けだそう。他力本願から抜けだそう」というコピーを新聞各紙に一面広告を出しました。

 三日坊主・井の中・無芸大食・その場しのぎなど、マイナスイメージの言葉を並べ、そこからの脱却を呼びかける広告です。

 それらマイナスイメージの言葉の中に、浄土真宗の命とも言うべき「他力本願」という言葉が含まれていたことで宗派はそのカメラメーカに厳重に抗議をいたしました。

 後日、この広告を制作した大手広告代理店から「この度、ご指摘いただきました広告コピーの一部にあります『他力本願』につきましては、俗にいうところの『もっぱら他人の力をあてにすること』として表現したものであり、他意は全くございませんでした。広告表現に携わる社として、知識不足、認識不足により配慮に欠けた表現をいたしましたことをここにあらためて深くお詫び申し上げます。」という「お詫び文」が宗派に届けられましたが、一般的には文中にあるような『もっぱら他人の力をあてにすること』として他力本願が理解されているようです。

 「他力本願」を広辞苑を調べてみますと、「@阿弥陀仏の本願。また、衆生がそれに頼って成仏を願うこと。A転じて、もっぱら他人の力をあてにすること。」とありました。

 大手広告代理店の方々も広辞苑に出ていたAの意味を「お詫び文」に用いたようですが、どうやら広く一般的にはAの意味が浸透しているようです。

 しかしAの意味は誤用・間違いであることを皆さんはご理解ください。

 他力本願の誤用は今に始まったことではありません。昭和初期には当時の浜口首相が「他力本願ではだめだ自力更正でいこう」と発言したり、近年では鈴木首相が「わが国の防衛は他力本願ではだめ自分の国は自分で守る」と発言したりしております。

 他力本願の他力は他人の力のことでなくて、本来の意味は「他を利する(救う)力、ハタラキ」のことです。

 阿弥陀仏の他を利するハタラキが本願と呼ばれ、このハタラキに目覚め、このハタラキをより所とするのが浄土真宗のみ教えですので他力本願の誤用に宗派が神経質になることは無理のないことです。

 しかし、他力は他人の力ではないと理解している浄土真宗の流れを汲む者の中でも誤解があるようです。

 例えば「私には自分で仏となる力がないので阿弥陀仏の力を借りて仏となる」といった考え方です。これは他力を妥協の産物する考えです。

 本来の他力とはそのような自力がゼロだから他力をプラスするような考え方ではありません。私にプラスするのでなく、私の頭を一八〇度方向転換させるハタラキが他力と呼ばれる阿弥陀如来の本願なのです。

仏事の迷信Q&A(No.42)

Q.二人の法事を一度で済ましたいのですが…。

 「それだけは止めてください。そんなことをするとお布施が半分になってしまい住職一家の生活も苦しくなりますのでそれだけは断固として許しません。お布施を二人分出すのなら許しましょう。」

 なんて言うのは冗談です。住職はそんなセコイ考えは持っておりませんのでご安心ください。

 しかし逆に「お布施が安くつくから」と考えて一度にする場合は別です。

 「故人の法事をそんなセコイ考えで取り止めてしまうような人は、もしその人やその人の家族が亡くなったときは通夜と葬儀をまとめて一度に行いますのでご承知おきください。」

 と言うのも冗談です。ご安心ください。

 時々このような質問を受けますが、一ヶ月以内ぐらいで命日が違っている場合は仕方ないと思いますが、二ヶ月も三ヶ月も違っている場合は出来るだけ併修(一度で済ますこと)は避けたいものです。

 しかし、法事に参加する親類たちの負担を考えますと併修も已む得ないことです。

 その場合はご家族だけでも結構ですので祥月のお参りのような形で法事を行ってはどうでしょうか。

 法事とは故人の死をご縁として親しい者が集まり、その死を無駄にしない意味からも私自身が法(教え)に出会わさせていただく場なのです。

 また、命日の日やその近くの日に行うのも故人の事をいろいろと思い出し考えさせていただくご縁となるのです。

 これから冬にかけて親鸞聖人の「報恩講法要」が浄土真宗のお寺や各家庭で勤められます(関東はご家庭では少ないようです)が、なぜこの時期かというと親鸞聖人のご命日が一月十六日、旧暦の十一月二十八日だからです。

 つまり、聖人のご苦労を少しでも偲ばせていただこうと寒いこの時期に報恩講を行うのです。本当のご命日は京都の本願寺に皆さんお参りされますので、地方の寺院は日が重ならないように少しずつ日をずらして勤めるのが慣習となっております。

 それと同じように故人のご法事も故人を偲ぶご縁として、特にお浄土に往生される直前の、この世での最後の姿を思い出しながらご縁(教えを聞くということ)に会わせていただくのが本当なのです。

 おそらくほとんどの方は、遠方から来て法事に出席してくれる親類のことを考えて併修されるのだと思いますが、故人の死を無駄にしたくないと思われる方は出来るだけ併修を避けていただければと思います。

 ご法事は派手にお金をかけてすればよいというものではありません。少人数でも心温まる法事を勤められる方も大勢いらっしゃいます。

 そんな法事は「故人の死を無駄にしたくない」というご家族の気持ちが住職にも痛いほど分かるものです。

 それはやはり真剣に聴聞されるお姿から伝わるのだと思います。ご法話を一言も聞き逃すまいとするその姿勢がこちらにも伝わってくるのです。

 来恩寺にご縁のある方はご法事を併修される場合は、命日が遠くなってしまう方のお参りは少人数でも結構ですので祥月法要のように勤めてはいかがでしょうか。

 お布施で言っているのではありません。

仏事の迷信Q&A(No.43)

Q.同じ人の法事を二回勤めてはいけないのですか。

 Q 実家が遠方で親の法事の日に仕事の関係で帰れません。私の家族だけでこちらでも法事を行いたいのですが法事を二回勤めてはいけないのでしょうか。

 A 先月号では二人の法事を一度で済ますことに対する相談を受けましたが、今月は一人の法事を二回行うご相談です。

 来恩寺の最高責任者として今回のご相談にお答えしますので心してお聞きください。

 「ご法事は何回勤めても構いません。お寺としては10回ぐらい勤めていただけるとお寺の会計が楽になりますので親戚一同がそれぞれ勤めることをお勧めしなはれ。」

 と言うのは冗談です。嬉しさのあまりつい関西弁が飛び出てしまいました。

 冗談はさておき、来恩寺のある湘南地方は仕事の関係で故郷を離れてこちらに住んでおられる方々が大勢いらっしゃいますので今回のようなご相談も時々いただきます。

 また、実家が近くても兄弟姉妹が遺産相続などで争いをしているご家庭もあり、このような相談を受けることもあります。

 どちらにしましてもご法事は亡くなった方をご縁としてこの私が教えを聞かせていただく場ですので、私が参加しないご法事は無かったことと同じです。

 今回のご相談は、そのような故人の尊いご縁を失ってしまったことへの無念さから出てきたご相談だと思いますが、そのお気持ちを大切にしていただきたいと思います。

 日本では主に長男が両親などの法事を勤める慣わしが常識となっておりますが本来は誰が法事をしても構いません。

 最近は故人が生前同居していた家族(長男とは限らない)が法事を主宰する場合が多いようです。

 また、法事を一周忌は長男、三回忌は長女、七回忌は次男といったように兄弟姉妹で順番に勤められるご家族もいらっしゃいます。

 兄弟姉妹平等にという考え方だと思いますが、塾の先生のように、僧侶を比べるのだけは止めていただきたいと思います。

 以上のように最近は封建的な家督制度に縛られることなく自由な発想で法事を勤められる家庭が増えてまいりました。

 結論として申しますと、誰が主宰して法事を勤められても、何回法事を勤められても結構なのですが、気を付けていただきたいことは、必ずご家庭のお仏壇やお寺の本堂のような阿弥陀如来の尊前で法事を行い、必ず教えを聞くということです。

 法事の目的は故人をご縁として阿弥陀如来の救いである「法(おしえ)」を聞くということですので、このことだけは大切にしていただければと思います。

 ときどきお墓の前での法事を頼まれたりしますがお断りをしております。お墓の前では、長時間立ったままお経を読んだり法話をしたりすることが困難ですので、ぜひ屋内で、しかも阿弥陀如来を安置している場所でご法事をお勤めください。

 自由な発想でご法事を勤められることは結構なのですが、「簡単に」といった発想だけはお止めください。

仏事の迷信Q&A(No.44)

Q.どの宗教でも信心を言いますが信心はみな同じなのでしょうか。

 お答えいたします。

 ご質問者の言われるとおり、どの宗教でも「信心」を大切にし「信じること」が救いの条件であることを強調しております。

 私たち浄土真宗も「信心」は阿弥陀如来の救いの中心であると特に大事にしております。

 しかし、浄土真宗で言う「信心」と他の宗教の言う「信心」とは大きく異なっております。この辺りが多くの人が誤解しているところですので詳しく説明したいと思います。

 一口に「信心」と言っても宗教によって様々な考えがあるようです。浄土真宗的に申しますと、ほとんどは「自力の信心」と呼ばれるもので、自分が信じることを「信心」と呼んでおります。

 それに対して浄土真宗で言う「信心」は「他力の信心」と呼ばれるもので、阿弥陀如来からいただく「こころ」と言って良いと思います。

 その「こころ」とは阿弥陀如来の救いを疑う必要のなくなった状態のことで、自分が信じる、信じなければならない、といった力みのまったくない状態のことです。

 この「こころ」は長い間の聴聞(阿弥陀如来の救いのいわれを聞くこと)によって育まれる「こころ」で、「信心する」とはまったく逆の「いただく」といった表現がピッタリな「こころ」なのです。

 例えば、小さな子どもが母親に寄せる絶対的な信頼にも似た「こころ」の状態と言って良いと思います。

 私の長女(3才)はチャレンジャー精神が旺盛で、家にあるジャングルジムなどの頂上に立つのが大好きです。

 親にしてみれば落ちはしないかとハラハラするのですが、本人はいたって気楽で、最後は母親に向かってジャンプします。

 必ず母親は私を受け止めてくれるという絶対的な信頼があるから彼女はジャンプするのです。

 「おかあさん受け止めてよ」の言葉もなく飛び込む彼女に母親は「何してるの、危ないわねぇ」と言ってビックリしておりますが、言葉もなくジャンプするから、そこに絶大な信頼があることが分かります。

 もし彼女が「おかあさん受け止めてよ、本当に受け止めてよ」と言葉を発してからジャンプすれば、彼女は母親を信頼していないことになります。何故ならそれは確認だからです。確認してからでなければジャンプできないのであれば、それは信頼ではありません。契約です。

 浄土真宗の「信心」は信じるから救われるといった「契約の信心」ではありません。

 まったく疑いの余地のないこころの状態を「信心」と呼んでいるのです。

 何に対して疑いがないのかといえば、それは「自分の力ではまったく不可能な浄土往生が、阿弥陀如来の力によって必ず可能になる」ことに対してなのです。

 一般的な信心は自分の欲を満足させるために「信心する」といった契約の信心ですが、浄土真宗の信心は自己を見つめ阿弥陀というハタラキに目覚める「こころ」のことであり、その「こころ」は聴聞によって「いただくこころ」なのです。

 ありがたいことです。

仏事の迷信Q&A(No.45)

Q.どうして本願寺が西本願寺と東本願寺に分かれたのでしょうか。

 今回のご質問は仏事の迷信ではありませんが、皆さんによく質問されますのでお答えいたします。

 本願寺は京都東山、大谷の地に宗祖親鸞聖人の遺骨と御影(木像)を収めた「大谷廟堂(御影堂)」として1272年に誕生しました。

 その廟堂は聖人の娘覚信尼さまの子孫が代々お守りすることになり、覚信尼さまの孫にあたる本願寺第3代覚如上人がその廟堂を「大谷本願寺」と称することと定め、第7代の存如上人の時代まで細々とお念仏の教えを伝えておりました。

 しかし本願寺中興の祖と慕われる第8代蓮如上人の活発な教化によって、遠近各地の寺院が浄土真宗寺院に改宗し門徒の数も飛躍的に拡大しました。

 そのような本願寺の勢いを腹立たしく思っていた比叡山の僧たちは、1465年、ついに大谷本願寺を破却してしまいました。

 からくも聖人の御影とともに近江に逃げのびた蓮如上人は、越前吉崎に移り住み約四ヶ月後には吉崎御坊を建立しましたが、そこに留まることも数年で、また近江に戻り、近江に近い山科に大きな山科本願寺を建立しました。

 吉崎・山科ともに大規模な寺内町が形成されていたそうです。

 その後、蓮如上人と上人の息子実如上人の手により大坂石山(現在は大阪城が建っている)にも坊舎が建立され、蓮如上人の孫にあたる証如上人は山科本願寺が近江の大名六角氏などに攻められ焼失したのをきっかけに、石山の御坊を石山本願寺として寺基を定めました。

 そして第11代顕如上人の時代、世は戦国時代でしたが、あまりにも大きな勢いとなっていた本願寺は、信長の執拗な攻撃に遭いましたが、各地の浄土真宗に好意的な大名の助けもあって、11年という永きにわたって石山本願寺を守り抜きました(石山合戦として有名です)。

 しかし、本願寺を守るために殺されて行く多くの門徒たちの姿に耐えられず、また当時の天皇の和議もあって顕如上人は石山本願寺を信長に明け渡し、長男の教如上人らとともに寺基を紀州の鷺森・和泉貝塚・大坂天満、そして秀吉の寺基寄進により1591年、京都堀川の現在地に本願寺を移しました。

 顕如上人の示寂後、本願寺の第12代門主となられたのは長男の教如上人ではなく16才の三男准如上人でした。

 これは教如上人という人物を怖れた秀吉の命令でしたが、秀吉没後、家康は本願寺の勢力を分断するために、その教如上人を担ぎ出し、京都七条烏丸に寺基を寄進しもう一つの本願寺を建てたのでした。

 それ以後、建てられた位置から准如上人の本願寺を「西本願寺」、教如上人の本願寺を「東本願寺」と呼ぶようになったのです。

 私たちが忘れてはならないのは、本願寺が教義の違いによって分かれたのではないということです。

 あの信長を相手にして一歩も退かなかった本願寺教団を怖れた家康によって、江戸幕府安泰の策略として分けられてしまったのです。

 家康は真の信仰の怖さをよく知っていた人物です。信仰を守るためなら命も惜しまないのが当時の本願寺教団でした。有名な一向一揆も一向宗(阿弥陀仏一仏を信仰の対象とするためこう呼ばれていた)である浄土真宗の門徒が起こした権力者との戦いでした。

 ざっと以上が本願寺が東西に分かれた理由です。私見ですが、教義に違いがなければそろそろ東西本願寺が一つになってもよい頃だと思います。

仏事の迷信Q&A(No.46)

Q.よく「前世の業」によって現在の境遇が決まったと聞きますが
本当でしょうか。

 つい最近まで、いや現在もそのような業論(業に対する見識)を持つ人たちがおられるようですが、大変な間違いです。

 特に障害のある者や差別されている人たちに「前世の業だから…」と言って、現在の境遇を仕方ないものとあきらめさせる手法として「前世の業」が語られてきたようです。

 仏教にそのような差別を認めるような業論はありません。

 本願寺の註釈版聖典の補註に「この業、宿業の語が、仏教、ことに浄土教において誤って用いられた例が多い。『因果応報(良いことをすれば良い結果を受け、悪いことをすれば悪い結果を受ける)』というような表現をもって固定的な因果論を説き、現実社会の貧富、心身の障害や病気、災害や事故、性別や身体の特徴までもが、その人の個人の前世の業の結果によるものと理解させ、貴賤、浄穢というような差別を助長し、それによって一方ではそれぞれの時代の支配体制を正当化するとともに、また一方で被差別、不幸の責任をその人個人に転嫁してきた歴史がある。」とあります。

 つまり傷害があることや差別されていることを自分の「前世の業」として認識させ、体制や社会など人間が作り出した差別に文句を言わさない構造に組み込まれたのがこの「前世の業」という業論なのです。

 こんなおかしな業論はありません。

 障害者に対する差別や部落差別などの差別は人間が作り出した差別です。本人の業によってできあがった差別ではないのです。

 確かに自分の業として認識しなければならない現実もありますが、本来あるはずのない、あってはならない差別を差別されている側の責任として眠らせ目隠しさせてしまうのは間違いです。

 仏教はそのような人間が作った差別と戦い、人間を差別・被差別から解放していく教えなのです。

 お釈迦さまのご在世当時からインドにはカーストという差別制度がありました。

 お釈迦さまの言葉です。
「人は生まれによって尊いのではない。また生まれによって賤しいのでもない。人は行いによって尊くもなり、賤しくもなるのだ。」

 お釈迦さまの弟子ウパーリは最下層のカースト出身者でした。そのようなウパーリの出家に反対する弟子たちに対して発せられたのがお釈迦さまのこの言葉なのです。

 何か不幸があるとすべて「前世の業」と片付けるのは大きな間違いです。

仏事の迷信Q&A(No.47)

Q.他力本願って何ですか?

 浄土真宗の大切な言葉「他力本願」が本来の意味からはずれて「他人まかせ」などと誤用されております。

 先般、浄土真宗本願寺派 親鸞聖人鑚仰会総連盟からリーフレットが出版されましたので内容を掲載いたします。


家族の会話

 めぐちゃん「ねえ、ねえ、お父さん。他力本願ってなあに?」

 父さん「なんだ、難しいことを聞くなぁ。そんなこと、他人まかせにしないで、自分で調べなさい」

 めぐちゃん「あっ、あった。他人の力をあてにすること…」

 父さん「そっ、そうだよ。他人まかせにすることを、他力本願っていうんだよ。世の中、何でも自分で努力しなくっちゃ。他人の力をあてにするなんてダメなんだ!」

 めぐちゃん「でも、もう一つ意味があるよ。仏さまの力…って」

 父さん「ああ、そんなこともいうなぁ。おまえも受験するときは、ちゃんと合格祈願にいかないとなぁ。実をいうとお父さんも、宝くじを仏壇にお供えしてるんだ」

 めぐちゃん「それって他人まかせじゃないの〜」

 じいちゃん「おいおい、おまえさんたち、願い、願いって、自分たちの願いのことかい。他力本願っていうのは仏さまからの願いなんじゃよ」

 めぐちゃん「ええっ、仏さまの願い?」

 じいちゃん「そうじゃよ、仏さまはすべての人を、必ず救いたいと、願われているんじゃよ」

 めぐちゃん「すべての人って、私のことも?」

 じいちゃん「そうじゃよ。おまえのことじゃよ。迷っている人を必ず救うというのが仏さまの願いなんじゃよ」

 めぐちゃん「ふ〜ん。でも、私、迷ってなんかないわよ。迷いってなあに?」

 じいちゃん「ワシらの願いは、かなわなくても、かなってもキリがないんじゃ。それを迷いというんじゃよ」

 めぐちゃん「へ〜ぇ、お父さんはどう思う?」

 父さん「そうだなぁ、願いにキリがないっていうのは分かる気もするけど、自分ではなかなか気がつかないよな。なあ、母さん」

 母さん「そうねぇ、でも、気がつかないっていえば、朝日が差し込んでいるところだけにホコリが舞っていてビックリすることがあるでしょ。何もないと思っていても、光に照らされて、初めて見えてくる、迷いってそういうものじゃないかしら」

 めぐちゃん「私、いつもお掃除してるモン」

 じいちゃん「ハハハ、掃除のことじゃないよ。仏さまの願いに照らされて、ホコリだらけの自分に気づかされるんじゃよ」

 父さん・めぐちゃん「ホコリを照らす光かぁ」


解説

 「他力本願」という言葉は、浄土真宗において、み教えの根幹に関わる最も重要な言葉です。

 浄土真宗の宗祖である親鸞聖人がいわれた「他力」とは、自然や社会の恩恵のことではなく、もちろん他人の力をあてにすることでもありません。

 また、世間一般でいう、人間関係のうえでの自らの力や、他の力という意味でもありません。 「他力」とは、そのいずれをも超えた、広大無辺な阿弥陀如来の力を表す言葉です。

 「本願」とは、私たちの欲望を満たすような願いをいうのではありません。阿弥陀如来の根本の願いとして「あらゆる人々に、南無阿弥陀仏を信じさせ、称えさせて、浄土に往生せしめよう」と誓われた願いのことです。

 この本願のとおりに私たちを浄土に往生させ、仏に成らしめようとするはたらきを「本願力」といい「他力」といいます。

 私たち念仏者は、このような如来の本願のはたらきによる救いを「他力本願」という言葉で聞き喜んできたのです。

 ここにはじめて、自らの本当の姿に気づかされ、いまのいのちの尊さと意義が明らかに知らされるのであり、人生を力強く生き抜いていくことができます。

仏事の迷信Q&A(No.48)

Q.家に二つのお仏壇があると良くないと言われましたが…。

Q.我が家には私の家のお仏壇がありますが、このたび、宗派の違う妻の実家のお仏壇を引き取ることになりました。どうすればよいでしょうか。

A.久しぶりに「仏事の迷信Q&A」を掲載します。

 今回のご質問は、少子化の影響で家庭環境が多様化する中で発生したご質問で、最近よく受けるご質問です。心してお聞きください。

 お仏壇は本来、自分が信仰する宗教の御本尊を安置する場所です。ですから、家族みんなが同じ宗教を信仰しておればお仏壇は一つで結構なのですが、家族の中で違う宗教を信仰する者がおれば、お仏壇が二つあっても不思議ではありませんし、信仰をやめさせる強制力はだれにもありません。

 海外では家族みんなが同じ宗教を信仰している家庭が減少しており、お墓にも十字架(キリスト教)や法輪(仏教)・下がり藤(浄土真宗)のしるしが混在している墓地もよく見かけます。

 「個」を重要視する欧米ではすんなりと受け入れられる光景ですが、「家」を重要視する日本ではなかなか理解できない光景です。

 今回のご質問の背景には、欧米のような個人の信仰とは別に、日本の「男系の長子を優先する」考え方があるようです。天皇家の問題にも通じるものがあります。

 これは難しい問題です。お仏壇やお墓のように形のあるものだけでなく、仏事を主宰する者は誰かという問題も含んでいるからです。

 私の場合は、個人の信仰を大事にしますので、ちょっと気が早い気もしますが、将来、長男の嫁が一人っ子で、親の世話や仏事の主宰をしなければならないといった場合は、喜んで協力したいと思います。

 「先祖が大事にしてきたお仏壇を私も大事にしたい」ということであればお仏壇を置くことも許すでしょう。これは「もし立場が逆であれば」を考えるからです。

 このような問題の解決は、時間を掛けて考えるか、次の代に任せればよいと思います。早急に解決せねばならない問題ではないと思います。

 迷信を気にする方に一言だけ言っておきますが、家にお仏壇が二つや三つあっても何の問題もありません。同じ仏教ですので。それよりお仏壇と神棚が同居している方がおかしいのではないでしょうか。

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